旋律的 林巧公式ブログ

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川越のピアノ演奏会

 

 川越に出かけて、尚美学園大学の教員によるピアノの教育研究発表会(2014/10/21)を聴いた。8人の演奏家による、4人の作曲家のピアノ作品の演奏会。ドメニコ・スカルラッティソナタから5曲(演奏、青木いづみ)、ショパンの練習曲集 Op.10より、第1、2、4、5、6、7、8、10、12番(鵜木日土実)、後半は2台ピアノで、モーツァルトソナタ K.448(中沢玲子、横井玲子)、ラフマニノフ組曲第1番「幻想的絵画」Op.5より「バルカローレ」「夜と愛と」(下平晶子、余村聡二郎)、そして「涙」「復活祭」(多紗於里、大嶺未来)。ドメニコ・スカルラッティソナタだけが円熟期に入った40歳代半ば以降の作だが、あとの作品はショパンが19歳から22歳にかけて、モーツァルトは25歳、ラフマニノフも20歳のときで、その若さで書きとめながら、ピアノ音楽史に燦然と輝いている作品ばかりだ。
 この大学でピアノを専攻している学生のために開かれ、公開で催された演奏会だが、ぼくはピアニストのひとりである下平晶子氏に、この7年間、ピアノを師事しているという関係から、川越に出かけてみようと思い立った。


 とあるSFのアンソロジーについて、さまざまなメソッドとパースペクティヴ(定められた視点から展開された透視図法)を、選者が戦略的に張り巡らせることで、つまらない批評の文章よりも、よほど本質的に作家をやる気にさせる効果がある、と書いたことがある。この夜のピアノ演奏会も、文芸ではなく、音楽だが、おなじようなことを感じた。
 音楽の、なかでもピアノだけの、バロックが終りを告げようとする18世紀半ばから、古典派、ロマン派を経て、すっかり熟したロマン派の向こうに近現代が透けてみえてくる19世紀末にかけての、ピアノ作品の錚々たる“アンソロジー”である。
 21世紀を迎えた日本、そのなかの川越からみえる、作曲家とピアノ作品への距離感、そして、それぞれの作品がもつパースペクティヴが伝わって、とても愉しい。ピアニストの演奏の持ち味もそれぞれに違い、2014年の川越までやってきた道筋も、バックボーンも少しずつ異なるピアニストたちが、真摯に作品に取り組み、ひとつの場に集い、それぞれに豊かなピアニズムを披露した。


 作曲家には、それぞれ歴史上の位置と、そこからくる固有のイメージがあり、音楽をよく聴くひとほど、それをもとに、いろいろと感じがちだ。だが、それは歴史の後ろからの知識と感性の“ふりかざし”であり、ほんとうの音楽の感触だろうか、と思うときがある。 
 ひとりの作曲家が音楽史に残るような作品を書くとき、作曲家はまだ誰もみていない遥かな地平をみつけて、地平線と水平線が交わり、この世の風景が尽きてゆく消尽点(ヴァニシング・ポイント)をみつめていたはずだ、と思う。ドメニコ・スカルラッティも、ショパンも、もちろんモーツァルトも、そしてラフマニノフも、その遥かな地平をみいだしていた。


 歴史には前後があったとしても、その“発見”に序列はつけられない。いい演奏というのは、その地平を聴くものに感じさせてくれるもの、その音楽がこの世で初めて書きとめられたときの、作曲家の興奮を追体験させてくれものだ、と思う。
 これは演奏家にとって難しいことで、ある作品を100回弾いて、その作品がこの世に誕生したときの奇跡を、聴衆の目の前で100回とも起こせるピアニストは、おそらく世にひとりもいない(いや、それは技術の物理的な力で、原理的には可能だ、とピアニストはいうだろうか?)。何回かに一度ならある。そのような演奏は巷間、ひとつの奇跡として伝えられる。作品のなかの、ある部分で、それを起こせる、というのなら、さらに率は高くなるだろう。


 たとえばピリオド奏法で名を高めたニコラウス・アーノンクールが、古楽演奏家だけでなく、世界の名だたるモダンなオーケストラに指揮者として迎えられ、ドヴォルジャークまで振るようになるのは、どうしたことだろうか、と、ぼくはあるとき、奇妙に思った。思ったけれども、アーノンクールドヴォルジャークを聴いてみたい、という気持ちは、ぼくのうちにも理窟抜きにある。
 そのとき、ぼくは彼のテレマンの演奏をとても愛していた。それは、歴史の後ろからみるテレマンではなく、その音楽がこの世に生まれたとき、テレマンがその音楽を書きとめたときの、とても新鮮な奇跡のきらめきだ、と信じたくなるものを、アーノンクールは演奏のなかで感じさせてくれたからだ。そのおなじ魔法を、もう一度、別な場所で期待してもおかしくはない。彼は古楽の専門家であったけれども、その魔法を古楽ではない場所でも期待する、一群のひとたちが現れた、とばくは思うことにした。


 そうした演奏の奇跡によって、音楽を聴いているもののうちに鮮明に、あるいは微かなきらめきとして、作曲家がみた遥かな地平を再現し、聴くものの初めての体験として音楽を提示することが、そうやって感じたことのない感興を与え、考えたこともないイメージを想わせることが、そのような体験を与えられるものが、ほんものの演奏だろう、と思う。


 その夜の尚美学園大学でのピアノ演奏会では、4人の作曲家と、その作品の交錯する地平によって、とても新鮮な感興を味わうことができ、そんなことを思った。それぞれの作品がこうあるべき、という、すでに歴史のなかにある知識と感性の帰着としてではなく、ピアニストがそれぞれの道筋から辿り着いた、それぞれの演奏を通して、真摯に追おうとした作曲家の地平が、そしてピアニストが現在、まだその地平を追いつづけていることが、そうした感覚を引き起こしたのだと思う。神妙に座っていた、この大学のピアノ専攻の学生たちはどう聴いたろうか。