旋律的 林巧公式ブログ

旅とおばけと音楽と、小説とごちそうと物語について。

アジアおばけ街道

h_major2007-06-02

 おばけのいる人生といない人生というものを考えてみて、どちらがより豊かなのだろうかと想像する。おばけがいなくてもご飯は食べられるし、夜は眠れるし、恋もできる。そういうものかもしれない。
 おばけを暮らしのなかから切って捨てることは簡単だし、みてみぬふりをすることもたやすい。そういうことの繰り返しのなかから、この輝かしい文明生活が獲得されてきたと考えるひとたちもいるだろう。そら、みろ。おばけなんてなんの役にも立ってなかったじゃないか、と。
 でも、ほんとうだろうか。
 慎み深いおばけたちはそういわれても、文句一ついわないかもしれないが、おばけが本気でどこかへ逃げてしまったら、六十階まで積み上げたブロックの一番下がなくなるようなもので、オキラクな屋上の眺めなど、きっとどこかへ吹っ飛んでしまう。おばけは思いのほかパワフルで力持ちなのだ。おばけがバランスよくブロックを支えてくれているから、ぼくたちは一応、余計なことを心配せずにすむ。
 “それ”はおばけにまかせておけばいい。
 ただ、おばけが隣に棲んでいることを知っているだけで、ご飯がうまくなり、夜はすてきな夢をみて、恋も盛り上がるということだ。怖さは豊かさを下支えする。得体の知れない恐怖は日々の暮らしのバックボーンであり、腐葉土なのだ。
 だが、おばけとはそもそもなんなのだろうか。
 それはたとえ目にはみえなくても、はっきりと感じられる。すなわち、絶対的で、現実的。いいかえれば奇跡的な生きものだ。
 そういう生きものがあらわれる場所というのは決まっていて、要するにこの世のなかのひび割れたところ、裂けそうなところである。おばけは世界のその傷口を癒したり、開いたりしながら、近寄ってくる。
 “それ”を感じるひとたちのもとへ。
 おばけがやってきて初めて、ぼくたちはいったいなにが現実的なのかを知り、ありきたりな毎日の暮らしを豊かに感じることができる。人知を超えてパワフルなおばけに、この世の一端をしっかりと支えられて、想像力が初めて舞い降りてくる。そこに極彩色の日常がひろがってくるのだ。アジア各地の街や、村でみられるように。この世は楽しい。
 おばけなしでは生きてはいけない。
 そんなアジアの豊かさに乾杯したい!
 そうした思いに駆られながら、台湾、マレーシア、タイ、香港……とおばけを訪ねる旅をつづけてみた。アジアの国々には、その土地、土地にバラエティ豊かなおばけが棲みつづけている。そんなことはわかっていたが、やっぱり驚いた。
 鬼(グィ)、悪霊、精霊、天空霊、吸血鬼、強方(ゴイファン)、ピー・タイフー、ピー・ポープ、ブオラン・ブニアン、ポンティアナ……、と次から次へ聞いたことのないおばけたちが、続々と妖しげな隊列を成して、跫音を響かせつつ、あらわれるのだから。
 それはもう西洋のゴーストたちとは比較にならないほど身が引き締まり、やわらかく、のびのびとした、おばけたちばかりである。
 ヤツらはちゃんとヤツらのための街道を知っていて、マレーシアからタイへ、台湾からマレーシアへ、香港から台湾へ……とあちこち渡り歩いている。この世のものではない、おばけたちの街道はアジアの奥深いところで、縦横に掛けられていて、今日もそこを通ってゆくヤツらがいる。
 そのおばけ街道のせめて入り口までは、ご案内したい。そこから先はあなた次第だ。帰ってこられなくなっても面倒だし。もっと進みたければ進めばいいし。そのための装備はすでに用意されている。おばけにつきあうということは、相手がパワフルなだけ、こちらもエネルギーを消耗するものだ。
 だが、一度、おばけ街道の風景を眺めれば、費やしたエネルギーは何万倍にもなって返ってくるだろう。おばけが支える一端のパワーを、てこの原理で取り込めばいい。それが、おばけがいる人生というものである。
(扶桑社/1994年)