旋律的 林巧公式ブログ

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マカオ発楽園行き/香港・マカオ・台北物語

世界の入り口

マカオ発楽園行き―香港・マカオ・台北物語 (講談社文庫)

マカオ発楽園行き―香港・マカオ・台北物語 (講談社文庫)

 二十代の半ばも過ぎようというころ、ぼくは初めて台湾へでかけて、萬華(ワンホア)という街を訪ねた。いわゆるアジアのなかで、ぼくが初めて行った土地が台湾だった。台湾のひとから“萬華は恐ろしい街だ”と散々聞かされていた。だから、噂どおりの恐ろしい街だと感じながら歩きつづけた。
 理由はいろいろとあった。そのころ、台湾のやくざの多くは、この街の出身者からなるといわれていた。台湾では喧嘩のときに“萬華の出だ!”というだけで怖がられた。台湾最大の公娼窟がまだあのころは萬華にあった。いつの世にも恐ろしい場所が、世界にはいくつかあるのだろうが、そのころの萬華は少なくとも傍目にはどこよりも恐ろしげな街にみえた。
 台湾のひとつの中心地が台北という都市であるとすれば、萬華はかつてそのまた中心であった街である。台北はもともと市内の西端に接して流れる淡水河に沿って発展してきた。もうとうの昔に途絶えているが、淡水河を行き来する船が、台北にひとやものを鍛冶屋の吹子の如く、吹き込みつづけてきたのである。そのおおもとの街が淡水河沿いの萬華で、台北の移りかわりを、その大都市としての喜びもかなしみも、身をもって味わってきたダウンタウンということになる。そこは恐ろしい街ではあったけれども、ぼくにとっては紛れもなく、世界の入り口だった。その向こうに、ぼくの知らない風景がみえそうな気が、少しだけした。だから、得体のしれない街のざわめきに、からだをびくびくと慄(ふる)わせながらも、ぼくはわけもわからず歩きつづけた。

 それから三十代の半ばにかけて、ぼくはまるで知らなかったいろいろな国々や、街の隅々を、ことにアジアの土地を旅するようになった。さまざまな風景が、あの恐ろしい街のざわめきの向こうにひろがっていた。香港の皇后大道東(クィーンズ・ロード・イースト)も、マカオの竹灣(チェクワン)も、すべてがそうである。
 すべては萬華から始まった。ぼくにとって、驚くべき街やひとびとの表情が萬華の向こう側にあった。地上に楽園はないというひとがいる。ぼくもかつてはそう感じていたが、今ではそう思わない。パラダイスは地上にはっきりとある。

 ぼくは今、こうして東京の机の前にいる。二十歳のころは、この机はなかった。ひとによって、世界の入り口という場所は、いろいろだと思う。ぼくの場合は、台北の萬華だった。しあわせな時代に、しあわせな土地を旅することができたと心底感じている。これは萬華の向こうで出逢った、二十世紀末を生きたひとびとの物語である。
(解説 佐伯修「林巧が感知するただならぬ“場所”」)