旋律的 林巧公式ブログ

旅とおばけと音楽と、小説とごちそうと物語について。

亜州魔鬼行/アジアン・ゴースト・ロード

一度、本棚に戻し、あとから憶いだして、読んでほしいあとがき

 小説に果たして、あとがきは必要だろうか?
 読者の気持ちとすれば、ぼくだって、あとがきがあれば、もちろん読みたい。だが、作者の気持ちとしては、何か月もかかって、ひとつの小説を書き上げたのだから、たった今、それを読み終えたばかりの読者の目の前にしゃしゃり出て、せっかくつくりあげた虚構を遠くへと追いやり、日常を取り戻す手助けなどしたくはない。
 だが、まわりをみてみると、あとがきのある小説は、多数派ではないかもしれないが、珍しくもない。小説の幕は閉じたのに、後ろから幕を捲り上げて、いいたいことがある作者が少なくはない、という気もする。その板挟みのようなところからだろうが、“翌日読んでもらいたいささやかなあとがき”というタイトルすらあった。庄司薫の「赤頭巾ちゃん気をつけて」だ。でも、これは、ちょっとずるい。小説の主人公の一人称のまま、読者に語りかけるもので、ほんとうのあとがきではなかった。
 ぼくは、妖しい瓶を携えた鬼沢ー小鬼(シャオグイ)ではない。こうして、今、堂々と虚構から抜けたところに立って、語りかけている。だから、少し強い口調でいいたい。たった今、この本を読み終えたばかりの読者は、ここで一度、この本を書棚にしまってほしい。そして、忘れかけたころに、ふと憶いだして、このあとがきを読んで欲しい。それが長い時間をかけて、この小説を書いた作者からの、切実なお願いである。

 ロード・ムービーと呼ばれるジャンルの映画がある。
 旅をつづける途上の風景を、そこで起こるさまざまな出来事を、本質的なプロットとして取り込んでゆく映画である。どんな時代であっても、旅というものは、人間にとって根源的で、本質的な営みであった。人類は生まれてこのかた、たぶん、一秒の休みもなく、旅をつづけてきた。だから、遥かな昔から、旅にまつわる物語や、演劇や、詩や、歌や、……そして小説や、映画は、まったくこと欠かなかった。
 だが、ぼく自身にとって、ロード・ムービーといえば、ふたつしかない。ヴィム・ヴェンダースの「パリ、テキサス」(一九八四年)と、ジム・ジャームッシュの「ダウン・バイ・ロー」(一九八六年)だ。彼ら――このふたつの映画に出てくるひとたちは、どこか景色のすばらしい土地や、居心地のいい街を求めて、旅をつづけたわけじゃない。いいも悪いもない。やむにやまれず、旅をつづけただけだ。「パリ、テキサス」の、トラヴィスのやるせない旅は、彼自身の人生そのものだ。そこにしか、彼が生きることの真実はない。「ダウン・バイ・ロー」のザックとジャック、そして刑務所で相部屋となるロベルトとの三人組での脱獄の旅は、ただ生き残るための旅だった。まさに流れゆく一秒、一秒を、そうやって生きてゆくことが、彼らの日常であり、手触りのある現実だった。
 そんな旅をつぶさにみて、ぼくは驚きとともに、ある種の憧れを感じた。

 角川ホラー文庫から、新作の長編ホラー小説を書いて欲しい、という依頼を受けて、ぼくの頭に真っ先に浮かんだのは、“ロード・ホラー”という言葉だった。ぼくはアジアのさまざまな土地を旅していた。そして、それらの土地のさまざまな妖怪や精霊について、ふつうの日本人が知り得ないようなことを、すでに多く知っていた。あの、ふたつのロード・ムービーのように、やるせなく旅をつづけることが、生き残ることとほとんど同義であるような、……そして、そこに妖怪の息がそっとかかってくるような“ロード・ホラー”であれば、きっと、これまでどこでも読めなかった面白いものが書ける、とぼくは思った。
 そうやって、やるせない旅に無慈悲にも送りだしたのが、鬼沢仁(おにさわひとし/グイツォーレン )である。旅はたちまち、いいも悪いも、なくなった。シャオグイ(小鬼/鬼沢仁)は、ただ生き残るために、やむにやまれず、日常としての旅をつづけざるを得なくなった。
 最後にシャオグイは日本へと帰ってくる。だが、彼はもはや旅立つ前の、鬼沢仁ではない。トラヴィスが別れた妻とひとり息子を再会させたように、……ロベルトが御馳走になった一軒家にとどまり、ザックとジャックが別れ道で別れたように、……やるせない旅は“生きること”そのものを乗っ取って、シャオグイの人生そのものの色を鮮やかに塗りかえてしまう。

 さて、この小説には、さまざまな通りの名や、ホテルや店の名などが出てくる。ごく一部を除き、それらは実在するもので、ぼく自身が旅の途中で立ち寄り、場所によっては繰りかえし出かけ、愛着をもっている場所だ。
 シャオグイが香港で泊まった灣仔(ワンチャイ)の“衛蘭軒(ウェスリイ)”は、ぼくが親しんだホテルのひとつ。シャオグイをPK(ポッカイ)した呪い屋の婆さんは、衛蘭軒から銅鑼灣(コーズウェイベイ)へとつづく軒尼詩道(ヘネシー・ロード)沿いの路上にほんとうにいつもいて、多くの香港人から呪いを請け負っていた。
 ラムチョップが自分の誕生日にヴーヴ・クリコのヴィンテージを開けた中環(セントラル)の“マンダリン・オリエンタル”二十五階の“ハーレクイン・バー”は、待ち合わせでよく使った場所だ。待ち合わせの時刻より早めにでかけて、ここの窓から黄昏どきの香港を眼下に眺めながら、ビールを一杯、引っかけて相手を待つのが、ぼくは好きだった。ラムチョップのように、ここでお祝いのシャンパンを開けたこともある。シャオグイとラムチョップがカウンターで隣り合わせた銅鑼灣の居酒屋“一番”では、幾度、酒を飲んだかしれない。
 やるせないインド人の亡霊がカウンターにあらわれた、クアラルンプールの“コロシアム・カフェ”も、隣接する昔ながらの映画館“コロシアム・シネマ”にも、よくひとりで出かけた。“シネマ”は、日本ではもうあまりみられなくなった懐かしいたたずまいの映画館で、ぼくはインド人やマレー人たちに混ざって、ここで愉快に映画をみた。“カフェ”には南洋材でつくられたささやかなカウンターとテーブル席があり、店の奥へとつづく細い廊下を通り抜ければ、宿泊の部屋がいくつかあった。飲んだり、食べたりしているうちに、部屋が空いてるなら泊めてくれ、ということもできた。こうした古いコロニアル様式の、安いホテルがクアラルンプールには何軒かあり、ぼくは好んで泊まった。起き抜けに、共用の洗面場で顔を洗い、頭をぼりぼりかきながら出てきて、店主に「Morning!(おはよう)」と挨拶すると、目の前のカウンターでコーヒーが飲めるのだから、最高の宿だった。
 妖怪のために言葉をなくしたラムチョップとシャオグイが珠江(パール・リバー)沿いに船でたどり着いたマカオの竹灣酒店(ポウサダ・デ・コロアネ)も、マカオで一番好きな宿だ。半島部マカオではなく、路環(コロアネ)島という小島の鄙びた南岸にある竹灣酒店は、ポルトガル様式の古い建物で、部屋には海をみわたすバルコニーまでついているのに、安かった。香港で煮つまると、ぼくは行方をくらますようにして、よくこのホテルへ、高跳びをした。そして、竹灣の海を眺めながら、マカオでしか飲めないポルトガルの緑ワイン(ヴィニョ・ヴェルデ)を飲んだ。
 夏鳳真(かほうしん/シアフォンチェン)が暮らしていそうな台湾の台北、萬華(ワンホア)の日本家屋は、何軒か、好奇心から家のなかをみせてもらったことがある。かつて日本人が暮らしていた、こうした家屋は戦後、台北市当局が接収し、希望するひとたちに売り払われた。そこに今も暮らす、台湾のひとたちは、大切に手入れしながら、つくりのよい古い家を愛している。
 夏之龍(なつのりゅう/シアチーロン)が出入りしていたコタ・キナバルの茶餐室(チャーツァンシー)も、南洋の古い街にはたいていあって、その土地の華人たちがのどかに集っている。こうした店の開け放たれたフロアの、吹き飛んできた砂で微かにざらついたテーブルで、強いジンジャー・ティーを飲んだり、その店の前で店開きしているマレー人の屋台からサテを買い込んで、酒を飲むことが、ぼくは何よりも好きだった。そんなひとときを過ごしていると、ジャングルのふところに抱かれた街の食堂に今、いるんだ、と心から実感できた。
 ぼくは遠い昔の、あるいはつい先日の、物語の気配が微かに漂う土地を、通りを、そしてホテルや、店を、訪ねていた。そして、そうした場所を、小説のなかに出すことで、さらに新しい物語を、そこに重ねようとした。イタリア料理のうまいソースのように、物語も混じれば混じるほど、さらに味を出す、ということを、ぼくは知っている。先行する小説を読んで、あるいは映画をみて、ぼく自身がそうやってきたように、……この小説を読んで、ここにあげた通りや、ホテルや、店を訪ね、そこにシャオグイや、ラムチョップや、夏之龍がたたずんでいた気配を感じてくれる読者がひとりでもいるならば、作者としてこんなに嬉しいことはない。虚構の旅に終わりはない。トラヴィスや、ザックや、ジャックは、今もなお終わりのない旅を、きっとどこかでつづけている。黒い瓶を携えたシャオグイもおなじである。 新しい長編小説の書き手として、角川ホラー文庫に呼んでくれた、同文庫編集長の佐藤秀樹氏、そして「怪」での、ぼくの連載の担当者であり、この小説を単行本編集者として、まとめあげてくれた菅原哲也氏に感謝したい。