旋律的 林巧公式ブログ

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雙瞳/ダブル・ビジョン

地獄巡りの記憶

ダブル・ビジョン (角川ホラー文庫)

ダブル・ビジョン (角川ホラー文庫)

 地獄と天国との距離は、ひとが想像するよりも、恐らくずっと近い。表裏一体といってもいいかもしれない。だから、地獄を巡った者は天国に近づくし、天国だけをうかうかと夢みる者は地獄に墜ちやすい。
 大抵の宗教で天国は抽象的であり、地獄は具体的である。いいかえれば、天国には何もなく、地獄には色鮮やかな風景がある。これは多くの場合、神の口数が少なく、悪魔や悪霊が口うるさいという事情にも通じている。もし口うるさい神がいたら、神としての素姓を、疑ったほうがよいだろう。
 それでも、スウェーデンボルグは天界の風景を、よくできた旅行記のように、具体的に詳しく書き誌した。それ故に、スウェーデンボルグは異端視された。ダンテの「神曲」では“天国篇”はどちらかといえば退屈で、“地獄篇”はテキストとしての魅力に満ちている。それは“地獄篇”の記述が具体的であるからだ。

 中国では道教儒教、仏教が、“三教”と呼ばれる伝統的な宗教であった。そして、これらの宗教は相互に関連をもち、あるところではみわけがつかないほどに入り交じっている。
 道教が他の宗教と根本的に異なるところは、それがことのはじめから不老不死、すなわち永遠の命の獲得を目指しているところだ。三世紀後半の晋の時代には、すでに神仙の実現を想定した、道教の学説体系が築かれている。その礎のもとに、道教は永遠の命を求めつづけた。双瞳(ひとつの目にふたつの瞳。あるいは片側だけでふたつの目)はそのひとつの象徴である。永遠の命を獲得した仙人は、世俗から離れたところに存在するのかもしれないが、その願い自体は非常に現実的なものであった。そこには元来、勧善懲悪も、道徳律も、布教への意思もない。そうしたものがあらわれてくるのは、仏教などからの影響である。
 ダンテが「神曲」の“地獄篇”で活写したように、中国文化圏でも“三教”が入り交じった世界のなかで、地獄は色鮮やかにイメージされてきた。戦後になって、迷信打破が叫ばれた中国大陸では、かえって古いものがひととき失われたが、台湾の道教寺院を訪ねてみれば、どこかに地獄絵図が描かれている。
 そこでは、地獄はもうひとつの具体的な現実である。現実の世に帝がいて、役人がいて、裁判官がいるように、地獄にも帝がいて、役人がいて、裁判官がいる。閻魔大王とは地獄の帝であり、ひとつの地獄を司る神とは、その地獄を統括する裁判官である。その裁判官のもとで、地獄の刑罰を執行する役人がせっせと働いている。

 陳國富(チェン・クオフー)監督『雙瞳/ダブル・ビジョン』は、台湾での公開で、記録を塗りかえる人気を博した。台湾、香港、およびアメリカの共同製作だが、台湾を舞台にしているから、当然ながら台湾のひとたちは物語のなかに入って行きやすい。だが、台湾のひとたちの暮らしは、現代的という意味では、たとえば台北は東京とかわるところがない。ケーブルテレビなど、一定の分野では台北のほうが進んでいる。そんななかで、遠い地獄巡りの記憶をふいに呼び醒まされたことが、大ヒットの一因になったのではなかろうかと思う。
 そして、こうした地獄絵図は、実のところ、われわれ日本人にとっても、ずっと親しみ深いものだった。中国と朝鮮半島を経由して、仏教を受け入れた日本は、当然のことながら、“三教”が生み落とした世界観や、道徳律、さまざまな文物を、同時に受け入れてきた。物語のなかにあらわれる、氷の池や、業火の炎、さらには身体の切開、そして舌抜きは、日本人も長い間、みつめて、そっと身をふるわせてきた、地獄の色鮮やかな風景の一部である。遠い地獄巡りの記憶は、われわれの心のうちにも残っている。

 地獄の風景とともに、日本人の心をもふるわせるものが、この物語のなかにはある。漢字の呪力だ。
 われわれは日本語を話し、そして書いている。その日本語のなかには、多くの漢字が含まれている。いうまでもなく漢字は、アルファベットとは違って文字そのものに意味を含みもつ、古代中国が生み落とした表意文字である。
 火という字も、土という字も、われわれは日本語のなかでごく日常的に使っている。それは中国でも、台湾でも、朝鮮半島でもおなじである。火は、炎が燃えるかたちからとられた文字で、土は、土をまるめた土地神のかたちからとられた文字だ。いずれも紀元前から使われている。
 われわれは今、たまたま火という字と、土という字の、用法とイメージを、現実的な日常生活に支障のないように限定して、都合よく使っているに過ぎない。二十一世紀の日本人、あるいは中国人や、台湾人にとっても、“少陽太陰”が“火土”だといわれても、ぴんとはこない。だが、火も、土も、万物の生成流転を説く陰陽五行説のなかで、それぞれひとつの基本概念を成す文字であり、それだけの歴史を背負っている。われわれの火や土のほうが、後からの仮寓なのだ。あるところで、そのことに気づかされて、遠い地獄の記憶が呼び醒まされたように、ひとつひとつの漢字そのものがもつ、遠く、恐ろしい記憶に驚かされる。
 フィリップ・K・ディック原作、ポール・バーホーベン監督のアメリカ映画『トータル・リコール』が、台湾での華々しい封切りを迎えたとき、たまたま台北に居合わせたことがある。音訳するか、意訳するしかない、固有名詞である主演俳優名のアーノルド・シュワルツネッガーが、阿諾史瓦辛格となっていたのは、その絶妙な文字遣いに感心した程度だった。
 だが、映画館の巨大看板に描かれたタイトルの漢字をみあげたとき、感心するというよりも、映画そのもののイメージが根本的に塗りかえられたように感じて、頭がくらくらとしたことを、鮮明に覚えている。それだけの強い呪力が漢字にはある。台湾でのタイトルは『魔鬼総動員』だった。

 最後にもうひとつ、この物語には日本人の心をもふるわせるものが、……いや、一番大切なことは、ここまで読んでくれたひとたちとともに、そっと仕舞っておこう。物語はそれ自体、語り尽くしている。ことばにすれば壊れるものもある。黄火土(ホアン・フォトウ)について、謝亜理(シエ・ヤーリ)について、何かを感じ、ときおり憶いだすことがもしあるとすれば、それがあなたにとって、……ぼくにとっても、一番大切なことなのだ。