旋律的 林巧公式ブログ

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予言

三十年後の『恐怖新聞

予言―J‐HORROR THEATER (角川ホラー文庫)

予言―J‐HORROR THEATER (角川ホラー文庫)

 新聞というものは、ひとの心を騒がせ、ひとの想像力をかきたてる、実に不思議な力をたたえていると思う。
 新聞は物理的には、ただ印刷された紙きれに過ぎない。今日の日付の新聞はすでに家にあって、その紙きれには文字や写真が、びっしりと印刷されている。ちょっとみた目には、何年も前から準備されてきた、印刷物のようにもみえる。だが、そうではない。明日の新聞はどこにもない。世界のどこを探してみても、そのかけらすらない。……それが存在せず、ただ印刷を待つ白い紙に過ぎない、ということが、なぜか幼いころからぼくは納得できず、とても不思議でならなかった。
 もう少し大きくなってからは、たとえば試験勉強などで思うように勉強が進んでゆかないとき、逆に、明日になれば必ずできあがって届けられている新聞を、ぼくは恨めしく思った。ただの白い紙が、…… ひと文字のかけらすら、どこにも存在していなかった新聞が、たった一晩でできあがる。劇的な変化が一晩のうちに起きる。……自分はいったい、この一晩で何をしているのか、と。

 今から、およそ三十年前、新聞がもつ、その不思議な力に、日本中の子供たちをふり向かせた漫画が、つのだじろう氏の『恐怖新聞』だった。
 『恐怖新聞』は一九七〇年代はじめ、秋田書店少年チャンピオン」誌に連載された人気漫画で、大阪で万博が開催された三年後、一九七三年から七五年にかけて、コミックスが九巻まで刊行されていった。ぼくにとっては小学校六年生から中学二年までで、まさにぼくは中心的な読者として、コミックスを奪いあったひとりだった。
 その『恐怖新聞』を原作として、二〇〇四年に映画『予言』(鶴田法男監督)が製作された。そして『恐怖新聞』と『予言』をもとにして、この小説は書かれた。この三十年後の“新聞”にまつわる物語のなかで、綾香がひとりの人物の奇妙な名を、そっと口にするところがある。
「鬼形礼という研究者がいるんですが……」
 それを聞いた御子柴聡子は、ほほ笑みながらいう。
「……“恐怖新聞”ね」
 新しい読者にとっては、何というところのない場面であろう。だが、『恐怖新聞』に親しんだ読者なら 、鬼形礼という名を聞くだけで、微かな驚きと、しみじみとした懐かしさに誘われるだろう。というのも、鬼形礼こそが『恐怖新聞』で“新聞”が届けられる主人公であり、しかも連載時には美顔の少年、私立中学の一年生だった。
 今もはっきりと憶えているが、“一日読むと、寿命が百日ずつ縮まってゆく”という恐ろしい“新聞”を読みつづける、同級生に近い鬼形礼の物語は、クラスの話題を騒然とさせていった。つのだじろう氏自身は、おなじころに講談社少年マガジン」誌に連載した『うしろの百太郎』に強い思い入れがあったようで、『恐怖新聞』はエンターティメントに描きつづけた、といっている。ほくたちはそのエンターティメントな術中に、もののみごとに搦め取られていったのである。エンターティメントとは、もちろん絵空事という意味ではない。つのだじろう氏は本気であった。そして、ぼくたちも間違いなく、本気で引き込まれた。だからこそ、ぼくは三十年たった今でも、こうして新聞の不思議な力について、あれこれと思いを巡らせている。

 そのころも、……そして、今ももちろん、未来の“新聞”がふいに届けられるという物語を、ひどい絵空事としてしか、受け取れないひとたちは大勢いる。
 だが、そんなひとたちは、新聞がもつ独自の形式について、あまりに無自覚ではなかろうかと思う。あるいは、新聞をただ物理的な紙としてしか受け取れない、それが想像力の喚起力にふれてくる領域で感受性のもちあわせがなかったのか、とも思う。『恐怖新聞』は、新聞そのものがもつ独自の形式と美しく反応して、ひとつの魅惑的な物語を織り上げていった。
 そのことで、ぼくたちは大騒ぎをした。その大騒ぎがもとになって、三十年後に映画『予言』がつくられた。大騒ぎの輪のなかにいた、ひとりの子供であったぼくは、それゆえに、こうして小説を書いた。
 奇妙な縁である。そして今、憶いかえしてみても、三十年前のぼくたちの、あの興奮と感受性は正しかったと思う。つまり、ぼくは今もおなじことを思っている。三十年という長い歳月を経て生まれた、『恐怖新聞』の思わぬ子供か孫のような、この小説を読んで、つのだじろう氏はどんな感じをもたれるのだろうか。

 新聞はもう時代遅れのメディアになった、というひとがいる。もう随分昔から、テレビ(最近ならインターネット)に比べて速報性に欠けるという致命的な“弱点”が指摘され、いずれ新聞は役目を終えて姿を消す、といわれている。だが、今のところ、新聞はまだ毎日、飽きもせず、世界中でつくられている。そして、心惹かれるひとたちの手に渡っている。もうすぐ新聞そのものが世界から消えてなくなってしまうという話も聞かない。
 それは、やはり紙面に書かれているものごと以上に、新聞という形式そのものがもつ、不可思議な想像力の喚起力のためではなかろうか。……ちょうど、印刷された書物という形式が、また異なる奇妙な魅力を泉のようにたたえていて、もう終わりは近いといわれながらも、消えそうにないこととおなじように。