旋律的 林巧公式ブログ

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ノロイ

ノロイ―小林雅文の取材ノート (角川ホラー文庫)

ノロイ―小林雅文の取材ノート (角川ホラー文庫)

 ことの起こりは、三鷹の火事だった。

 ひっそりとした住宅地で一軒の古い家が焼け落ちたという小さな火事だ。
 とはいっても、たまたま通りかかって、その火事の現場を眺めたとか、知り合いが巻き込まれたというわけではない。その火事の焼け跡からは、そこに暮らしていた夫婦の、妻の遺体がみつかった。そして、火事を境にして、夫の行方がわからなくなった。それだけの火事である。東京という大都会のなかでは、その程度の火事は珍しくもない。それに、そもそも火事が起きたとき、ぼくはそのことを知らなかった。その火事について詳しい話を聞いたのは、火事から半年以上も経ってからのことだ。
 はじめて、その火事のことを聞いたのは、三鷹に暮らす、ひとりの気心の知れた若い友人からだった。
「やっぱり、呪いってあるんでしょうかね」
 彼は謎をかけるかのように、酒場でふいにぼくに訊いてきた。
ノロイ?」
 今さら、まるで世界の行き止まりの場所を探すかのような無垢な問いかけに、ぼくは笑いながら答えた。
「ないと思う?」
「いや……」
 彼は曖昧に口を濁した。
 こうして後から憶いだしてみれば、彼は、自宅からさほど遠くない場所で起きた、その火事のことを、はじめから話そうとしていたに違いない。だが、ぼくはそんなこととはわからないから、いつものようにただ頭に浮かんだ連想をつなげながら、陽気に話しつづけた。
「たとえば……」
 ぼくはビールを飲みながら、彼に語りかけた。
「君に新しい恋人ができたとする。同棲でも、結婚でもいい。ふたりは意気投合し、一緒に暮らそうという話になる。それで彼女が身の回りの家具をもって、君の三鷹のマンションに引っ越してきた。……まあ、あの部屋なら、なんとかふたりで暮らせるだろう? ……彼女が持ち込んだ家財道具のなかには、使い古したセミダブルベッドがあった。君の部屋にもともとあるのは、シングルの小さなベッドだから、君のベッドを処分して、二人はそのセミダブルベッドを使うようになる」
 彼はきょとんとして、ぼくの話を聞いている。
「退屈な想定?」
「いいえ」
「嫌かな。もし、そんなことになったら」
「いえ。別に」
「うん」
 バーカウンターの後ろのテーブル席から、女の囁き声が聞こえてくる。
「そこまでなら、まあ、何の問題もない。よくある話さ。……ところが一緒に暮らしはじめてから、彼女はぽつりぽつりと、君にいろいろなことを打ち明けるようになった。その告白で、実は彼女が過去に長くつきあった男がいて、その相手が彼女と別れた直後に自殺していたことがわかった。……そんな憶いだしたくもない、不幸な事件が過去にあったから、彼女が自分の部屋から早く引っ越したいと願っていたことも」
 ぼくは彼に訊いた。
「そうしたら、君はどう思う?」
「ちょっと、嫌ですね」
「嫌って何が?」
 ぼくは彼をじっとみていった。
「彼女のことが?」
「ううん……」
 彼は考え込んだ。
 ぼくは淡々と言葉を継いだ。
「彼女と君の恋はほんものだ。その心情には、お互いに、ひとかけらの嘘もない。彼女は君を心から愛している。君の恋心を利用して、引っ越してきたわけじゃない。……不幸な事件は、彼女の心に深くささった刺みたいなものだ。だからこそ、包み隠さず、打ち明けた。……それとも、そういう話が、後から出てきたら、それだけで君は彼女自身を嫌いになる?」
 彼は首をふった。
「いや」
 彼はひと呼吸おいて、言葉をつづけた。
「だからといって、彼女を嫌いにはならないと思う。……嫌なのは、たぶん彼女が持ち込んだベッド」
 ぼくはうなずいた。
「うん」
「でも、そのベッドは……?」
「その男も、そのセミダブルベッドに寝たことがある。彼女はそういうふうにはっきりとはいわない。君も敢えて、問いただしたりはしない。……だが、そんなふうに君には察せられる」
 彼は顔色を曇らせて、ビールグラスに口をつけた。
「やっぱり、嫌ですね」
「当然だ」
 新しい客が入ってきて、後ろのテーブル席の喧噪がさらに大きくなった。
「できれば、そんなベッドでは寝たくはない。誰だってね」
「そうですよ」
「でも、その嫌な感じが、もう呪いの入り口なんだ。そうやって嫌な感じを胸に抱いたとき、君は、呪いのドアのノブに手をかけているんだ」
 彼はグラスから手を離して、ぼくをみた。
「どうして……?」
「だって、そうだろう」
 ぼくはちいさく笑った。
「君は彼女が持ち込んだセミダブルベッドを嫌悪する。できれば、そんなベッドでは、彼女と一緒に寝たくない、と思う。……でも、そのベッドは、ただのベッドだよ。それが君と彼女、ふたりの新しい暮らしに悪い影響を及ぼすことは、合理的に考えれば、ありえない。そうだろう?」
 彼は微かにうなずいた。
「なのに、君は彼女が持ち込んだベッドをみると、とても嫌な気がしてしまう」
 彼はじっと思いを巡らせている。
「そして、その嫌な感じを、なかなか心のなかから払いのけられない」
「ええ」
「そんなときに、この東京に暮らしているのなら誰の身にだってたまたま起こりそうな、ちょっとした事故に巻き込まれたり、あるいはさして珍しくもない、軽い病気に罹ったりしたら?」
「たぶん、嫌な感じが膨らんでしまうでしょうね」
「なぜ?」
 彼は困ったような表情を浮かべた。
 ぼくは話をつづけた。
「うん。理由はない。合理的には説明がつかない。……でも、彼女が持ち込んだベッドをみて、そのベッドにまつわる物語を聞かされて、嫌な感じに襲われている最中に、現実に少しでも嫌なできごとが起きてしまうと、たぶん、嫌な感じは君の心のなかでより多くの場所を占めるようになる。霧がひろがってゆくように。そうやってひろがった濃い霧が、もとから君の心のなかにあった風景をみえなくして、みたこともない風景を君にみせてくれる」
「みたこともない風景?」
「そう」
 ぼくはゆっくりといった。
「とても恐ろしく、……だからこそ、とても魅惑的な、みたこともない風景さ」
 ぼくはビールに口をつけた。
「ベッドの嫌な感じと、身の回りの嫌なできごとを、その濃い霧が結びつけてしまう。濡れた布が電気を通すようにしてね。霧がなければ決してつながらない、ふたつのものを君はつなげてみるようになる。……そこにひろがる、恐ろしく、魅惑的な風景を。……それとも、そんなふうには考えない? ……どこまで霧が膨らんでも、それは気の迷い? ……ベッドが運び込まれたことと、事故や病気は、偶然の一致?」
「呪い……」
 彼は諦めたように、小さな声で口にした。
「そう」
 ぼくはうなずいた。
「だから、幽霊と一緒だよ」
「え?」
「あるとか、ないとかいったところではじまらない。そんな議論に意味はない」
 彼は顔をあげてぼくをみた。
 テーブル席の嬌声を耳にしながら、ぼくは話しつづけた。
「もし、ここがバリ島なら、呪いがあるかないかなんて、そんな問いかけははじめから成り立たない。彼らにとっては、この世に土や水があるように、この世のはじめから呪いはあるんだ。それがなければ、ひとは生きてはいけない。そんな世界の一部さ。今でも、彼らは、ただひとりの人間を呪うだけじゃ飽き足らず、村単位で呪いをかけあって、目にみえない戦争まではじめちゃうんだから。でもね、ここはバリ島じゃない。三鷹のバーだ」
 そういって、ぼくはビールを飲んだ。
「だから、呪いがあるのかないのか、なんていうことが、酒場のちょっとした暇つぶしの話題になる」
「実は……、呪いがあるかないかなんて、さっき口にしたのは」
 彼はまだ口にしようか、どうしようかと逡巡しているようだった。
「何だい? どうした?」
 彼は決意を固めたように話しだした。
「半年ほど前にうちの近くで火事があったんですよ」
「火事?」
「ええ。そんな大きな火事じゃなくて、古い一軒の平屋だったんですが……」
 そういうと、彼は財布のなかから半年前の新聞記事のちいさな切り抜きを出してきて、ぼくにみせた。

三鷹の作家宅で火事 妻が焼死
 十二日、午後十一時十五分ころ、三鷹市牟礼の作家小林雅文さん(39)方から出火。木造平屋90平方メートルが全焼した。焼け跡から雅文さんの妻、景子さん(35)が遺体で発見され、警察では詳しい出火原因を調べている。また、火災後、雅文さんが消息を絶っていることから、何らかの事情を知っているとみて、行方を捜している〉

 その記事を読むと、ぼくは彼に訊いた。
「ふうん。それで?」
「その小林雅文さんっていう人を、ぼくはたまたま知ってたんです。……知ってるっていっても、通りすがりに一度、居合わせただけだけど」
「どういうこと?」
「その火事の二か月ほど前だったと思うんですが、いつも立ち寄る、この道の少し先の居酒屋でひとり飲んでたら、たまたま隣り合わせたひとが、その小林さんだったんです。すっごく疲れ果てた顔をしてて、何かの拍子に話しだしたら、いろいろおかしなことをいうんですよ。『恐ろしいことがこの世にはあるんだ』とか、『こうしてる間にも信じられないことが起こってる』とか……。で、よく話を聞いてみたら、そういう不思議な話を取材して集めている作家だという話で、『今、取材していることも、もうすぐビデオになる』って、……それで、ぼくもちょっと興味をもって、近所のよしみということで名刺を交換したんですね」
 彼は遠くをみるような目で話しつづける。
「で、結局、それきりなんですが、……そうしたら、その火事が起こって。うちの近くで火事があったことは、消防車や救急車が騒がしくやってきてたからわかってたけど、そこが小林さんの家とは知らなくて。その新聞記事をみて、びっくりしたんです。慌てて名刺を出してきて、住所を確認して、……やっぱり、あの小林さんの家だって驚いて」
「うん」
「さっきのベッドの話じゃないけれど、その火事の記事をみたとき、ぼくはなんだかすごく嫌な感じがしたんです。もちろん、名刺をもらったひとの名前が出てるのだから、あっと驚いたんだけれど、……そういうことだけじゃなくて、何とも説明のつかない、とても嫌な、禍々しく、忌まわしい感じ」
 テーブル席の客はもう帰ったのか、バーはまたしんとした静寂に包まれていた。ぼくは彼の話にじっと耳を傾けていた。
「それで、つい一昨日のことです」
 彼はかすれた声で話しつづけた。
「その居酒屋でまたひとり飲んでたら、がらがらっと扉が開いて、小林さんがひとり入ってきたんですよ。ぼくはもうびっくりして。……だって、その格好も、雰囲気も尋常じゃなかったんです。何日も着替えてないような薄汚れたシャツを着て、目もうつろで、ふらふらと夢遊病者みたいな足取りだった。店主もまるで幽霊が店にやってきたみたいにただ驚いて、ものもいわずみているだけ。ぼくは思わず立ち上がって『小林さん……!』って、声をかけたんですね。……そうしたら、小林さんは、ぼくの顔をみて、我に返ったような表情になって、……きっとそこで一緒に飲んだことを憶いだしたんでしょう、小林さんはふらふらとぼくのほうへ歩み寄ってきて、抱えていたぼろぼろの鞄のなかからノートを一冊取り出してきて、それを何もいわず、無理矢理ぼくに手渡した。そして、あっという間に居酒屋から出ていったんです。……ぼくは一瞬、唖然として、そのノートの表紙を眺めてた。それから、慌てて小林さんを追いかけて、店の外へ出たんですが、もう小林さんはどこにもいませんでした」
 彼はそういうと、鞄のなかから薄汚れたノートを取り出してきて、ぼくにみせた。
「これが、その小林さんのノートなんですが……」
 ぼくはノートを手に取ってじっとみつめた。表紙には「ノロイ取材ノート/小林雅文」と書かれている。めくってみると、日付とともに、走り書きのメモのようなものや、情景の記述のような文章が、びっしりと書きこまれていた。
ノロイ取材ノート……?」
「なんだか知らないけれど、ぼくは読んだんですよ。そのつもりで小林さんはノートを託したんだろう、と思って」
 ぼくはうなずいた。
「うん」
「そうしたら、怖くなってしまって……」
 彼は微かにうろたえた、訴えるような目でぼくをみた。
「それで急に呼び出して、呪いの話なんかになっちゃったんです」
「なるほど。そうだったのか……」
 彼はノートをぼくに手渡したまま、鞄の口を慌てて閉めた。まるで、そのノートを二度と鞄のなかに戻されたくないような顔をして。
「よかったら、読んでもらえませんか」
「ぼくが?」
「ええ」
「いいよ」
 彼はほっとした顔をして、囁くような声でぼくにいった。
「読んだ後、そのノートをどうするかは、お任せします」
「え? いいの?」
 彼はうなずいた。
 ふと気づくと、閉店時刻が近づいたバーのなかでは、もう我々ふたりがカウンターに座っているだけだった。
「わかった」
 私は軽い気持ちでそういうと、ノートを手にして立ち上がった。
 そして、三鷹の闇のなかで、彼とわかれを告げた。

                     ☆

 私はノートを読んだ。
 それは恐ろしく、不思議なメモだった。
 そして、いろいろと考えた結果、そのノートをここに公表することに決めた。ノートに記録された出来事の評価については、ひとりひとりの読者に委ねたい。