旋律的 林巧公式ブログ

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遠景へとつながる中景へのまなざし

叫(さけび) (角川ホラー文庫)

叫(さけび) (角川ホラー文庫)

 幽霊たちは、世界のどんなところに佇んできたのだろうか。
 伝統的には、湖の端、鏡のなか、高い塔、向こう岸、部屋の片隅……。いずれにせよ、ひとからみえる風景の、……その視界が途切れそうな端っこや、みえにくく薄暗いところに、ふと気がつくと、ぼうっと佇んでいる。

 だから、身の回りの近景だけを、近視眼的にしかみつめない目には、幽霊はまずみえない。遥かな遠景とつながる中景をみつめるまなざしが、その中景と遠景がかろうじてつながる、ちいさな場所に、ぽつんと佇んでいる幽霊を発見する。
 そして、そうやって幽霊の姿をみつけた者だけが、これも、ひとの耳に聞こえる波長と、聞こえない波長のぎりぎりの境目で響く、幽霊の声を耳にすることになる。この「叫」に出てくる〈赤いワンピースの女〉は、そんな幽霊らしい幽霊だ。

 この小説は、黒沢清監督の映画「叫」をもとにしたノベライズ作品である。主人公の吉岡登を演じたのは、役所広司。黒沢作品にも数多く出演し、また九十年代後半から日本映画を代表するひとつのキャラクターを獲得した感のある、この俳優の、一見、揺るぎないようにみえて、いつも魂のどこかを脅かされているような存在感は、「叫」でも遺憾なく発揮されている。というよりも、脚本を書いた黒沢監督によって、はじめから、主人公はこの俳優にあて書きされた、という印象も受ける。

 いずれにしても、その役所広司が演じる吉岡登が、遠景へとつながる中景のなかに〈赤いワンピースの女〉をみつけるという幽霊物語である。
 映画は吉岡のまなざしを丹念に追いながら、一方で、三人称視点での――吉岡のまなざしが届かない場所での――展開も追う。
 この小説では、しかし、吉岡のまなざしだけを追って、はじめから終わりまで、物語を展開させた。そうすることで、はじめは近景のなかで閉じているように思われた吉岡の日常が、〈赤いワンピースの女〉をみつけたことによって、中景から遠景へとゆっくりと、そして確実に引き裂かれてゆく物語がよく伝わると思ったからだ。
 だから、映画にはあって、この小説にはないシーンがいくつもある。逆に小説にはあって、映画にはない場面――この小説でしかみえない、吉岡のまなざし――もある。そのことを断っておきたい。

 映画には宿命的にフレームがある。
 決まったサイズの白い幕に投影された、決まったフレームのなかでしか、観客は映像と出合うことができない。
 たとえば、小説にも言葉という“フレーム”があるけれど、映画のフレームのほうが、縛りつけてくる力はおそらく強い。言葉で嘘をつくことは、映像で嘘をつくことよりもきっとたやすい。そのかわり、それをみる者を、瞬時に、全体的に、有無をいわせず、生理的に……、取り込んでゆく力は、映像は言葉の比ではない。
 あれこれ、ぶつぶつ呟くように考えながら、あるいは思いを巡らせながら、言葉で書かれたものを、読みつづけることは多々ある。だが、映画では、考え込んだり、思いを巡らす暇などない。何かしながら、あるいはまったく別なことを考えながらでも眺められる、テレビのことをいっているのではない。映像が投影されるフレームに正面から真面目に向き合えば、夢中になるか、退屈するか、……凝視するか、目を反らすか、……すべてが自明か、意味不明か、……そのどちらかしかない。
 そうしたことが、とてもうまくいったとき、――すなわち、フレームのなかを凝視して、夢中になり、すべてが自明であるとき、――その観客ははじめて、映像そのものを呪縛しているフレームの存在を忘れられる。目障りなフレームを置き去りにすることができる。
 そうなって、はじめてフレームのなかに映っていないものが、はっきりとみえてくる。中景の――フレームに届かない――周縁がみえ、涯てしない遠景がみわたせる。フレームが消えることで、その外側にも、その裏側にも、映画がつづいていたことが、ようやくわかる。

 幽霊は、そのための試薬のようなものだ。
 だから、遠景へとつながる中景の、とてもちいさな場所に、ぽつんと佇む幽霊の、冷たい息がかかるところまで近づけた観客は、フレームを置き去りにできたはずだ。そのために〈赤いワンピースの女〉は佇み、叫び声をあげている。
 遠景へとつながる中景とは、いいかえれば、フレームの境界、そのものでもある。〈赤いワンピースの女〉は、そこから姿をあらわし、その外へ、その裏へと、観客を誘いだそうとする。そうしたことに、きわめて自覚的に、この映画はつくられた、とぼくには感じられる。


 こうして赤い幽霊のことを書きながら、懐かしく憶いだしている黒い怪物がいる。「スウィートホーム」に出てくる怪物だ。一九八九年に封切られた、黒沢清監督のはじめてのホラー・ムービーである「スウィートホーム」には、〈赤いワンピースの女〉とは似ても似つかぬ、きわめて即物的な黒い怪物が姿をあらわす。
 この映画は黒沢清監督が、はじめて大きな予算をかけてつくった大作で、だからこそ、監督自身のホラーへの根本的な関心などまだ知る由もない、ぼくは、レベッカNOKKOが出演するというだけで、劇場にいそいそと出かけていった。
 そのころ、ぼくはヴァイオリンと、YAMAHAのDXー7というシンセサイザーを、取り憑かれたように弾いていた。コレルリと、モーツァルトと、ラグタイムと……、でも、レベッカというバンドも好きで、そのヴィデオクリップを、日がな一日、ぼんやりと眺めていたりもした。幽霊も、妖怪も、怪物も、大好きだった。だが、そうしたものについての小説も、雑誌原稿すらも、まだ一つも世に出してはいなかった。

 あれから、もう十七年。
 幸いなことに、幽霊はいまだ立ち去る気配がない。

 こうして、ぼくの目の前で、おなじ監督に撮られた〈赤いワンピースの女〉が佇み、叫び声を上げている。あの思いのほかにちいさかった、けれども懐かしい“屋敷”から、フレームのなかの風景はずっとひろがっている。ぼく自身も幽霊や妖怪たちとさらに親しくなり、そのことによって、ぼくのまなざしのパースペクティブも更新され、〈赤いワンピースの女〉の幽霊物語を書き終えた。この十七年で、たぶん、いくつかの“フレーム”を置き去りにすることができた。そのことが嬉しい。