旋律的 林巧公式ブログ

旅とおばけと音楽と、小説とごちそうと物語について。

シンガポール人の相棒と……慶應義塾大学日吉図書館

 大学は東急東横線の日吉(ひよし)にあって、ぼくは授業の空いた時間に、大学の図書館でバイトをしていた。ある日、大学の掲示板をみていたら、図書館が学生アルバイトを募集していたので、応募したのだった。そのころ、日吉はまだ田舎で、大学の近くでバイト口を探すのは、楽ではなかった。ちょうど日吉の図書館を建て替えるときで、使用頻度の高くない蔵書からバーコードをなぞってコンピュータに登録し、家の引っ越しとおなじように一冊ずつ段ボール箱に詰めてゆくという仕事だった。
 そのバイト仲間に、シンガポールからの留学生がいた。仕事はたいてい、ふたり一組になって、決められた棚の本を引っ越し用の箱に収容していった。バイト時間が重なっていたため、ぼくはしばしば彼と一緒にチームを組んで働いた。ともに学生で、バイト仲間といっても、彼はずっと年上で、もう三十代のはじめだった。妻も子もいるといっていた。二十歳そこそこのぼくとは、置かれた状況があまりに違っていた。だから、バイトを離れての付き合いは一切なかった。
 にもかかわらず、ぼくと彼は奇妙な親密感をもって、仕事をつづけた。それは図書館という特異な場所のせいだと思う。
 仕事をする場は、たいてい閉架になった職員以外は誰も入ってこない地下フロアだった。隙間もなく本が並べられた書架だけが、薄暗いフロアに見渡す限り並んでいて、ひとの声も、ひとがいる気配もまるでしない。ぼくたちはそこへ降りるときに明かりをつけて、出るときには消した。
 当然のことながら、それまでぼくは図書館の閉架フロアを歩いたことはなかった。ひとがいる部屋と、いない部屋とでは、おなじ図書館でも、こんなに風景が違ってみえるものなのかと、ぼくは驚いた。その部屋は、書物で、まさしく埋め尽くされていた。だが、ひとが誰もおらず、入ってこないことがわかっている。そんなフロアは、火星の植民地にでも漂っていそうな底のない寂しさと、それ故のおかしな安らぎに満ちているように感じられた。
 そんななか、生きてことばを話すもの、ただふたりだけという状況で、ぼくはシンガポール人と、半年以上もの間、百時間を超えるときを過ごしたのだ。留学生はきれいな日本語を話した。だが、ぼくたちはあまりお喋りはしなかった。どうせ誰もみていないのだから、ぼくはもうちょっと遊びながら、……たとえばあちこちの棚で勝手に拾い読みでもしながら仕事をしたかった。だが、彼は仕事については非常に生真面目で、休憩もさせてくれなかった。
 脚立に乗ったぼくが、上の棚から順に本を取り、コンピュータとつながった読み取り装置でバーコードをなぞる。ピッという読み取り音が、しんとしたフロアに響く。その本を彼に渡す。彼は受け取った本を、床にひろげた段ボール箱に詰める。その単純作業の繰りかえしだ。いつも、ぼくがバーコードをなぞる役目で、彼が箱詰めする役目だった。
 あるとき、ぼくは脚立のうえから彼に声をかけた。
「交代しましょうか?」
 彼は怪訝な顔をして、ぼくをみた。
「交代? どうして?」
「だって、いつも箱詰めだと退屈でしょう」
「これは仕事ですよ。……仕事に面白いも、退屈もありません」
 一瞬、たじろいで、ぼくは彼をみた。彼は仕事の中断を許さなかった。
「さあ、つづけて」
 その少し気色ばんだ彼の顔を、今もはっきりと覚えている。それから彼はまたてきぱきと山のような本を箱に詰めはじめた。楽しそうにはみえなかった。だが、着実に与えられた仕事をこなしている自信のようなものが、彼の姿から感じられた。


……「みえない街のおばけと神さま」より