旋律的 林巧公式ブログ

旅とおばけと音楽と、小説とごちそうと物語について。

香港、蘭桂坊(ランカイフォン)

h_major2007-07-18

 湾仔(ワンチャイ)のちいさな窓からみえる数千もの窓辺では、相変わらずの奇(あや)しい仕草で、光と影が揺らめいている。いろいろなものが、この光と影のなかに混じりあっているのだろう。それが都会というものなのかもしれないとも想う。
 ぼくはマンションをおんぼろのエレベーターで下がり、また天がみえない、看板だらけの街路へと降り立って、極彩色のネオンに彩られた夜の道を、ひたすら西へと歩いた。そして、中環(セントラル)から蘭桂坊(ランカイフォン)へと出た。
 わずか百メートルほどの道が、なだらかな坂と連なってつづいている。その道の両側に洒落たバーや、イタリアンやフレンチのレストランが軒を連ねている。路面フロアだけではない。銀座の裏筋でみかけそうな白亜の飲食ビルも、あちこちに建てられている。香港映画『重慶森林(邦題・恋する惑星)』のロケで使われたちいさなサンドイッチ店――北京生まれの王菲フェイ・ウォン)がキッチュな店員を演じた“ミッドナイト・エクスプレス”――も、この道沿いにある。
 かつて蘭桂坊界隈は、ビジネス街の中環と、山の手の住宅街であるミッド・レベルズとを結びつける、ただの薄暗い坂に過ぎなかった。やがて、ぽつりぽつりと白人向けのちいさなバーが道沿いにできた。そのころ、香港では不特定多数の客を相手にした新しい飲食店は、一定以上のフロア面積がなければ、正式な営業許可が下りず、ちいさかった蘭桂坊の店は、表向きはみんな“会員制”ということでやっていた。そのころ、この坂の真ん中の、やはりちいさな白人の店で、メキシコ料理を食べたことがある。料理はうまかった。だが、まだ坂を行き交うひとの姿も疎らで、蘭桂坊はとても盛り場とはいえない、薄暗がりに包まれていた。
 ところが、この坂道は盛り場として人気を博して、足を運ぶ客が夜な夜な増えていった。地価は急速に高騰し、もともとひっそりとした雰囲気が好きで開いていたバーの店主などは、逆にもっと静かなところへ、逃げ出すほどの盛り場となった。何か危うい感じが、この坂には漂いはじめた。だが、その危うさ、光と影との常ならぬ游(あそ)びに、ひとは心惹かれもしただろう。
 そして、一九九三年の大晦日、悲劇は起きた。新年を迎えるカウント・ダウンのために集まった群衆が、この狭い坂で将棋倒しになって、二十一人が命を落すという大惨事が起きたのだ。それ以降、クリスマスやニューイヤーのイヴや、特別な記念日など、大勢のひとたちがこの盛り場へとやってきそうな夜になると、香港警察は坂の上と下を完全に封鎖し、蘭桂坊へなだれ込もうとするひとの数を厳しく制限している。
 にもかかわらず、ひとはこのちいさな坂を目指して、香港中からやってくる。とんでもない混雑のなかで何時間、順番を待っても、このアンバランスな危うい坂に、足を踏み入れようとしている。


……「生死異路、香港の鬼に惑う」より