旋律的 林巧公式ブログ

旅とおばけと音楽と、小説とごちそうと物語について。

ウブド、バリ島

h_major2007-07-29


 バリ島ウブドという街の外れにあった、バティック屋でのことである。
 バティック(batik)というのは、インドネシアではどこでもみられる、美しい染物のことで、日本では“ジャワ更紗”と訳されてきた。色合いも鮮やかで、伝統的な意匠を染め込んだものが多く、あれこれと手に取って、ただ眺めているだけでも飽きない。バリ人たちは普段からバティックの腰巻きや、ドレスを着ていることが多いが、これが祭りともなれば、男も女もとっておきのバティックでつくられた華麗な衣装に身を纏って、集ってくる。なかなかの壮観である。
 そのバティック屋は、土産物屋というわけではなかったけれど、いかにも外国人好みの派手なものも取り揃えていた。もともとウブドバリ島のなかでもロスメン(長期滞在者用の下宿)に暮らす西洋人が多い土地でもある。店の奥まった場所には、店主の親父が陣取って、のんびりと新聞を眺めている。親父は羽振りが良さそうで、口髭を蓄え、金時計を腕に巻き付けている。
 ぼくは英語ができるチャンドラという名のジャワ人青年を、ジープの運転手、インドネシア語の通訳、さらには旅の相談相手として雇い、すでに四、五日、旅をともにしていた。ふたりの他に、店に客はいなかった。バリ人らしき店主はポーカーフェイスで、ちらちらとこちらをみている。
 ずらりと並べられた美しいバティックを、ぼくはひとつひとつ手に取りながら、その伝統的なデザインのなかに痕跡を止めている、インドネシアの妖怪や精霊たちの姿を探していた。ぼくはお化けや精霊の物語をバリ人たちから聞き、実際に妖怪があらわれると伝えられる土地を訪ね歩くという旅を、チャンドラとともにつづけていた。
 妖怪や精霊はふつう目にはみえない。だが、伝統的なバティックの意匠のなかには、そうしたものの姿が――はじめて森のなかでそうしたものと遭遇して、あっと驚いたときの印象が鮮明に――染め込まれたものがある。
 ぼくは隅から隅までバティックをみていった。売り物には、どれひとつ、値札がついていない。やがて、ぼくは精霊の姿がはっきりと象(かたど)られた、他の客にとってはともかく、ぼくにとっては値千金のバティックを五、六枚みつけだした。ぼくはそのバティックを手にして、店主をふりかえり、ちらりとみた。みつけだした精霊のバティックを、ぜがひでも買うつもりだった。だが、その気持ちは、千分の一も悟られてはならない。
 ここからが、勝負というか、ゲームがはじまる。ぼくは隣のチャンドラをちらりとみた。彼はわかったという顔で微かにうなずく。ふたりの間では、作戦は共有されている。
 ぼくはまったく気のない素振りで、五、六枚のバティックを手にしたまま、ぶらぶらと奥にいる親父のもとへと歩き、ぶっきら棒に値段を訊いた。
 ぼくがインドネシア人のガイドを連れた、外国人客だということは、店主には一目瞭然である。親父は上客(カモともいう)がやってきたという、ほくほくとした笑みをかみ殺すようにして、厳かな態度で値段を告げた。
 やはり、相当な高値だと感じられた。ぼくは実にわかりやすく、大きなため息をつき、バティックを投げ出すように店主の目の前に置くと、チャンドラを連れて、店を出ようとした。ぼくたちが店の前の道に出たところで、親父は奥から大声を張り上げた。
「Hey! ……Hey! ……Wait!」
 ぼくたちはゆっくりと、ふりかえった。親父はバティックを持ち上げてふりながら、微かに困惑した顔で手招きしている。……何もすぐに背中をみせなくとも。ちょっと話し合おうじゃないか……そんな諂いの笑みが読み取れる。
 ぼくは気怠い顔をして、店の奥に戻り、ふたこと、みこと話をする。
 作戦は成功した。この時点で完全に立場は逆転した。……親父は売りたい。だが、ぼくは買いたいわけではない……そのように役割が転じた。店主はこちらの腹を探るような表情で、二度目の値付けを口にした。はじめの金額からは三割ほど安い。ぼくは取り合わず、もう一度、落胆した顔で、チャンドラと再び店を出ようとした。
 やってみるとわかるが、このゲームは、ポーカーやオイチョカブとおなじで、主導権を握ると、病みつきになる。余分なもうひと張りを、張らずにはおれなくなる。
 ぼくたちは結局、三度、店を出て、その度に呼び止められた。最後には、店主は当初の威厳はどこへやら、もう泣きべそをかきそうな顔で、はじめの言い値の六分の一ほどの金額を口にした。面白いことに、目の前に金を出して買いそうな客がいると、彼らは在庫を抱えているよりも、損をしてでも売ろうとする。殿様商売の対極とでもいうべきスタイルなのだ。
 ぼくはようやく、じゃあ、貰おう、といい、はじめて笑った。これは本心からの笑みだ。
 ぼくの顔をみて、店主ははっとした顔になる。……やられた……という感情が、はっきりと読み取れる。だが、これは一回限りの真剣勝負であり、親父は負けたのだ。


……「バティック! バティック!」より