旋律的 林巧公式ブログ

旅とおばけと音楽と、小説とごちそうと物語について。

おやすみの挨拶を交わすチリ

「よくここまで、やってきたわね」
 チリはきれいな声でぼくにささやきかけてきた。でも、音はきこえない。心に直接訴えかけるような不思議なしゃべりかただ。ぼくは、はあはあと息をしながら、小屋の床にすわりこんだ。
「あなたはいったい何者なんですか?」
バリ島のひとたちはチリと呼んでいるわ。ブンジャン・サナンはなんて呼んでた?」
「彼女と呼んでました。いとこみたいなものだって」
 チリはすんだ声で、ボールをふるわせるようにして笑った。
「まあ、そんなものね。わたしはね、精霊なの。人があまりやってこない森で、おばけたちのすごしやすい土地を守っているのよ。ブンジャン・サナンのように荒っぽいことはしないけどね」
 ぼくはチリをみつめながら、ゆっくりと息をして、たずねた。
「どうして、ぼくをまねいたんですか?」
「まあ、それをいわせるつもり? あなたはおばけのすがすがしさと、その価値がわかる人間だからよ。でも、かんちがいしないでね。わたしの人間の友だちはあなただけじゃないの。わたしはおばけがわかる人たちにはちょっとしたメッセージを送って、おばけのすみかを守るために行動を起こすよう、耳元でささやいているのよ。いま、地球上からおばけのすみかはどんどん減っていて、それとともに、しあわせもどんどん減ってるのよ。しあわせが減ったら、もちろん人間にもすみにくい土地になっちゃうわ」
 ぼくはちょっと考えてみたが、こんなおかしな旅行をしたあとでは、おばけがいないなんていうことは信じられそうになかったし、また、そんなおばけもいないような土地に、しあわせがやってくるとも思えなかった。
「だから、まだアジアのおばけたちがああしてがんばっているうちにね、ちょっとみどころのある人間たちに絵葉書を送って、こうしておばけを味わってもらってるの。なかなかおもしろかったでしょう」
「どうして葉書なんか出せるんですか?」
「ちょっとまってよ。わたしは精霊なのよ。それも人類なんかが生まれるよりも、ずっと前からこの地球にいる。花を咲かせたり、雪を降らせたり、人の心を結びつけたり、なんていうのは、みんなわたしたちがやってることなの。いまもこうやって、なんの音もたてずに、あなたの心とコミュニケートしてるでしょう。葉書を出すなんて、わたしたちにとってはばかみたいに次元が低いことなんだけど、わざわざあなたたちにわかるように、あくびをかみ殺して書いてあげてるのよ」
「人類が生まれる前も、この世界はあったんですか?」
「あたりまえでしょう。生まれる前も、そしてひょっとしたらほろびたあとも、世界はちゃんとあるの。人類がたとえどんなことをやったってね、生まれる前からわたしたちがこの世にいるってことだけで、それは小さく、ささいなことになっちゃうのよ。わかる? どんなにがんばっても、人類がいろいろなことをみんなわかるってわけにはいかないの。それはわかったふりだけなの」
 ぼくはなんとなくわかる気がした。だから、おばけはこの世にいるんだ。
「いろいろ長い旅でつかれちゃったでしょう。わたしたちにとっては、時間も空間もなんてことはないんだけどね。人間はいろいろたいへんだから。今日はもういいから、この小屋でおやすみなさい。そして元気に日本へ帰ってね」
「帰ってから、どうすればいいんですか?」
「それは自分で考えて。わたしとしては、わざわざ招待状を書いて、おばけをみせてあげただけでも、もう大サーヴィスなんだから。それにあなたひとりにかまっているわけにもいかないの。さあ、おやすみなさい」
「おやすみ」
 ぼくはもうすっかりつかれはてていたので、小屋の中でゴロリところがるように横になった。


……「アジアおばけ旅行」より