旋律的 林巧公式ブログ

旅とおばけと音楽と、小説とごちそうと物語について。

イカとタコが、好き

h_major2007-09-05

 もの心がついたときには、イカとタコが好きだった。そのものを意識する前に親しんでいた。タコ焼きとイカ焼きのせいである。

 タコ焼きは店で買ってくるだけでなく、家でも専用の穴ぼこの鉄板で焼いた。七、八歳にもなれば、日曜の昼飯などに、ぼくは父親と一緒になって、ちいさな球体が焦げつかないよう、キリひとつでくるくると回したものである。これは新しい宇宙を創造する神さまのような仕事だった。
 イカ焼きは、居酒屋で出てくるイカの丸焼きのことではない。小麦粉を溶いたものにイカゲソを散らし、上下から鉄板で加熱加圧して、わずか一、二分で焼きあげる。ゲソが香ばしく、クレープのように薄い、お好み焼き状の食べものができあがる。
 イカ焼き機は業務用しかなく、家では焼けない。タコ焼きは日本全国で顔を知られた“名士”となった。だが、イカ焼きはいまだ大阪のいわば屋台メシで、辞書にも名が載らない。ぼくが幼いころは、どちらも甲乙つけがたい、タコとイカを代表する、庶民のおやつだった。
 最近では、さすがにタコ焼きとイカ焼きだけでは満足しない。ぼくは魚屋で新鮮なイカやタコを買ってきて、自分の手で捌いて、刺身を食べる。
 自分で捌けば、殊にイカは財産だ。四、五杯のイカを、ひとやまいくらで買ってきて、まとめて皮を剥き、軟骨を抜き取り、ワタと墨袋を、そっととり出す。新鮮なイカワタは、酒塩に浸して、二、三滴の醤油を垂らし、アルミホイルに包んでさっとあぶれば、フォアグラ並みの、……いや、それ以上の、うまい酒の肴となる。そのワタに、切りたての刺身をまぶして、とも和えにしても、実にうまい。ミミとゲソは調理しやすい大きさに切って冷凍する。後日、パスタやチヂミの具となる。

 北ヨーロッパ人にはイカやタコを毛嫌いする者が多い。中国料理でさえも、イカやタコは本来的に扱い慣れた食材というわけではない。伝統的には、中国大陸でも南の沿岸域や島でのみ、イカやタコは食べられてきた。面白いのは、イカといっても、墨のあるなしで概念分けされた、墨魚(モーユイ)、[魚ヘン+尤]魚(ヨーユイ)という名があることだ。
 台湾ではイカはとても好まれて、花枝(ホアジー)と呼ばれる。浜辺に並べたり、干したりして、ピンク色で足がひろがっている姿が、花の枝を連想させるのだろう。美しく味のある名が、台湾のひとたちとイカとの距離の近さを物語っている。ぼくも大好きなイカ団子の揚げものは、台湾では“炸花枝丸(ジャーホアジーワン)”と呼ばれる。
 マカオで贔屓(ひいき)にしている古いポルトガル料理店が一軒ある。それは、さまざまな理由が重なってのことだが、決定的だったのは、“アホース・デ・ポルヴォ”という名の、実にうまいタコ雑炊があったからだ。
 ポルトガル人はやはり伝統的に、上手なタコの食べ方を知っている。タコはたっぷりと出汁(だし)がとれるし、工夫を凝らして、一定時間煮込むと、身もほろりと柔らかくなる。それがまた米のご飯に、ぴったりとあう。トマトソース、オリーブ油との相性も抜群で、文句のつけどころがない。ぼくは“タコめし”と呼んで、マカオにゆく度、必ず食べる。
 スペインの港町バルセロナで食べたイカも忘れられない。六、七人も入れば一杯になる、ちいさなバル。日本の鮨屋とそっくりなガラスのネタケースがカウンターにあり、新鮮な魚介類が並べられていた。客はワインやビールを飲みながら、この魚をくれ、というわけだ。
 ぼくはハモン・セラーノをつまみにビールを飲んでいた。このスペイン名産の生ハムも注文してから、薄く削ってくれる。香り立つような削りたてが実にうまい。映りの悪い白黒ポータブル・テレビがカウンターの隅に置かれ、リーガ・エスパニョーラのサッカーの試合を流している。四、五人の仕事帰りの、肉体労働者とおぼしき男たちが、サッカーをみながら、酒を飲んでいた。
 そのバルのネタケースに、うまそうなイカがあった。ぼくが、イカを指差すと、バルのマダムがどうやって食べたいか、と訊く。ここはスペインだ、そのまま刺身で、というわけにも……と逡巡していると、マダムは軽く微笑んで、オリーブ油と塩胡椒だけでさっと焼くのが一番おいしいわ、という。ぼくがうなずくと、マダムは目の前で新鮮なイカを、バルセロナの流儀で瞬く間に焼いてくれた。
 そのイカはまったく信じがたくうまかった。

 それから、ぼくはときおりバルセロナのバルを憶いだし、刺身でもうまいイカを、オリーブ油と塩胡椒でさっと焼いて、食べるようになった。
 イカやタコは、食べものとしては嫌われている土地のほうが遥かに多い。だからこそ、日本を遠く離れての、うまいイカやタコと巡り合いは、貴いくらいに感じられる。それは、ぼくにとって隠された旅の悦びである。

……「隠された旅の悦び」より