旋律的 林巧公式ブログ

旅とおばけと音楽と、小説とごちそうと物語について。

雑誌の配達、そして“神田村”へ……青山ツインタワービル、流水書房青山店(2)

h_major2007-12-06

昼下がりの配達


 さて、遅めのランチが終わると、ぼくは配達にでかけることが多かった。
 流水書房が入っている青山ツインタワービルは、地上二十三階の高層ビルが東西に二棟ある巨大オフィスビルで、上層階にはたくさんの会社が入っている。そうしたオフィスに、法人として定期購読している各種雑誌を配達したり、またそこで働くひとたちが個人的に注文した雑誌や本を届けにいった。
 そのころ、マッキャンエリクソン博報堂という大きな広告代理店が、上層フロアにあって、ぼくは、よく配達にいった。さまざまなジャンルの雑誌や、新刊本の注文があったように思う。たいていは、ちらりと挨拶をして、本や雑誌を置いてくるだけだったけれど、なかには印象に残っているひともいる。
 雑誌というのは、つづけて読むところに味わいがある。趣味で愉しむものであれ、仕事にかかわるものであれ、決まった雑誌をつづけて読み、面白くなくなったり、もう読む必要がなくなったら、購読を止めて読まなくなる……つまり、定期的に読むか、まったく読まないか、……という読み方がふつうだ。
 ところが、雑誌の創刊号だけを、みんな配達してくれ、と注文したひとがいた。雑誌のなかみは問わない。どんなジャンルの雑誌でもいい。持ってきてくれれば、創刊号ならば、必ず一冊残らず買うから、と。
 かわった注文の仕方だな、と思いながら、ぼくは毎朝、雑誌売り場をひとわたりみて、また雑誌の担当者である店員にも訊いて、その日、創刊を迎えた雑誌を取り置いておき、午後になると、そのひとのデスクに届けにいった。
 最近は、雑誌の華々しい創刊もめっきり少なくなった。またメディアとしての雑誌の社会的な役割も、他の紙媒体とおなじく、インターネットの普及によって、相対的に低下してきている、と思う。だが、あのころはバブル経済が目前に迫った景気のいい時代で、新雑誌は息つく間もなく、あちこちの出版社から創刊されていた。
 だから、あらゆる雑誌の創刊号をすべて、というのは、けっこうな分量になり、定期購読を何誌もするより、たくさんのお金がかかった。ふうがわりな注文だったけれど、書店にとってみれば、いい“お得意さま”だった。
 そのひとが嬉しそうに雑誌を手にして、ページを開くのは、創刊号の一冊だけだ。その雑誌がどれだけ部数を積み増しても、後につづく第二号、第三号……には、まったく何の関心も示さなかった。ぼくは、創刊号だけをじっと眺めることで、彼の仕事のうえで何か役に立つことがあるのだろう、と思っていた。 
 雑誌の創刊というのは、ひとつの社会的な出来事だ。ひとつの文芸作品の発表も、そうだと思うけれど、小説や詩と社会とのかかわりは、もっとずっと込み入っている。社会から隔絶された机で書かれたような小説が、実は裏返した手袋の底の、編み目のほつれのように、手袋に伝わる空気の冷たさやぬくもりを……つまり、社会そのものの空気の揺らぎを、裏側から映し出していたりするのだが、そうとみんなが気づくのは発表されてから何十年も後のことだったりする。雑誌は少なくとも、その雑誌を支えるだけの読者層が、創刊時点ではっきり想定されている。それがどういったひとたちに向けてつくられた雑誌かは、創刊号をみれば誰だってすぐわかる。
 ある昼下がり、ぼくはいつものように二、三の創刊号を届けながら、すっかり顔みしりになったそのひとに訊いた。
「創刊号をみると、世の中の流れがわかるんですか?」
「え」
 そのひとは驚いた顔をして、ぼくに訊きかえした。
「世の中の流れって?」
「創刊号が仕事に役立つのかなと思って……」
「仕事?」
 やがて、そのひとはくすくすと笑い出した。
「違う、違う。……これは趣味で読んでるんだ。仕事はまったく関係ない」
「趣味……?」
 今度は、ぼくがきょとんとする番だった。趣味で読む、といっても、雑誌の内容は完全に千差万別なのだから。
「趣味で創刊号だけを? それが、つづきものの雑誌みたいにして?」
「ああ」
 そのひとはどこか誇らしげにいった。
「創刊号をコレクションするのが趣味なんだよ」
 ぼくはぽかんとして、嬉しそうに創刊号を手にする彼をじっとみた。
 雑誌の創刊号のコレクターというのは、実はそのひとひとりではなく、ちらほらといる、古書のマーケットでも、ひとつのちいさなジャンルを形成し、好事家たちの間で、あれやこれやの雑誌の創刊号が、密かに取り引きされている――と、いうことを、ぼくが知ったのは、ずっと後のことだった。


 流水書房で働く期間が長くなってくると、青山ツインタワービルのなかだけではなく、エプロンをつけたまま、自転車の荷台に雑誌や本を詰め込んで、青山、表参道、麻布界隈のあちらこちらへ配達に出るようになった。巨大ビルのテナントに入っている書店でも、商店街のちいさな書店とおなじように、ちゃんと配達用の自転車があって、自転車の足が届く範囲で書店員が配達をし、“ご用聞き”をしているのだ。
 そうやって自転車を漕ぎながら、ちいさな喫茶店とか、美容院とか、横丁の食堂とか、また青山ツインタワービルの会社オフィスとはまったく雰囲気の違う、ちいさな事務所へ、注文のあった雑誌や本を届けた。
 考えてみると、書店からの本や雑誌の配達というのは、昔にくらべて随分、少なくなった気がする。インターネットで注文した本が宅配便で家に届く、ということは増えてきている。だが、あれは書店の配達じゃない。あれは、また別の業態だ、とぼくは思う。書店の配達というのは、顔なじみの書店員がエプロンをつけたまま、自転車を漕いでやってきて、配達です、といって、本や雑誌を置いていくものだ。
 エプロン、エプロン……と、やけにエプロンをうるさく口にする、と思われるかもしれない。だが、店を一歩出た書店員を、そうと知らしめるものは、雑誌のロゴや、出版社名や、文庫シリーズの名や、書店そのものの名が、大きくプリントされた厚手のエプロンだけなのだ。エプロンのおかげで、ああ、出入りの本屋さん、と誰でもひとめでわかる。


 神田の古書店街であるすずらん通りの裏手、神田神保町一丁目の南の界隈に、中小の書籍取り次ぎ会社が集まっていて、東京の書店員の間で“神田村”と呼ばれているエリアがある。客から注文があった本を取り寄せるとき、書店員は、その書店に入っている取り次ぎ会社に注文伝票を回すか、出版社の販売部に直接、電話して注文する。それがふつうのやり方だ。だが、このやり方だと、実際に本が届くまで一定の日数がかかり、また人気の新刊で市場に出払っているものは、なかなか入って来ない。
 そこで腕利きの書店員は、バイクか自転車で“神田村”までひとっ走りし、客からの注文があった本を、その日のうちに手に入れる。ついでに、店頭に置いておけば売れそうな本を、みつくろって買ってゆく。
 バブルが真っ盛りになろうとしていたころ、神保町も地上げが進み、近い将来、“神田村”が取り壊されて消滅する、という話が各方面に伝わったことがあった。これには東京中の書店員が震撼とし、それは困る……と、眉をひそめ、頭を抱えていた。だが、バブルが弾けて、神保町の再開発計画も頓挫し、“神田村”は生き残った。


 その“神田村”への仕入れに、ぼくも先輩の書店員について、出かけたことがある。
 取り次ぎ会社といっても、ちょっと大きく古い書店のようで、半開きの入り口の薄暗さや、倉庫のような素っ気ない書棚、おなじ本が何十册と並ぶ情景が、ふつうの書店ではない、と感じさせるくらいの差だ。もちろん、出入りは自由だった。向こうもいちいち、こちらの身分を問いつめたりはしない。
 それでいて、本をレジ……と、いうよりも帳簿台へと、持ってゆくと、取り次ぎの値付け、つまり、カバーに刷られた定価の二割引で、ささっと伝票を書いて、品物を寄こす。……これじゃ、ここに来れば誰だって本が二割引で買えるんじゃないのか、とぼくはちょっと驚いた。その気配をみて、先輩の書店員は誇らしげにいったものだった。
「エプロンだよ」
「え?」
 ぼくはきょろきょろと辺りを見回した。なるほど、客はひとり残らず、書店のエプロンをつけている。ふつうの書店では、エプロンをつけているのは、本を売る側だ。だが、ここではあべこべに客がみんなエプロンをつけている。
「エプロンが書店員の証しなんだよ」
 ぼくは感心し、それからは毎朝、エプロンをつけるときの心構えが少しかわった。ただ服の汚れを防ぐためにつけるわけじゃない。今日一日を、書店員として働くために、その身分証として、エプロンをつけるんだ、と思うようになった。


 これは実はとても伝統的な、そして優れた、日本ならではの店商(たなあきな)い文化のひとつだと、あるときから、ぼくは認識するようになった。
 昔から、酒屋は酒屋の、米屋は米屋の、材木屋は材木屋の前掛け――エプロンをつけて仕事をしてきた。店を出たところで、はじめて会う相手でも、そのエプロンのおかげで、酒屋さん、お米屋さん、材木屋さん……と、すぐにわかったのだ。書店員のエプロンも、その前掛け文化の流れを汲む、店商いのしゃれた証しとして、機能していた。
 いつも決まった出入りのひとがいる、前掛け――エプロンとみしった顔でつながったひとが、職種ごとに家や店に出入りしている、というのは、とてもいい風景だ、と思う。ぼくは学生時代、荻窪のちゃんこ料理屋――鍋料理をつくる元力士の“親方”と手伝いの学生ひとりきりのちいさな店――で、皿洗いと給仕のバイトを何年もしていたのだが、店には毎日、若い豆腐屋がやってきた。
 店を開けてほどないころに、がらがらっと扉を開けて、豆腐屋です、とやってくる。そこで、注文した豆腐と油揚げを受け取って、親方が翌日分の注文をする。長居はしない。だが、毎日毎日、顔をあわせる若い豆腐屋に、親方は店の常連客に話しかける口調とは、またひと味もふた味も違う、親しさと連帯感を込めて、ちょっとした冗談口を交わす。豆腐屋も連帯感のあるまなざしで、豆腐と油揚げを受け取る、皿洗いのぼくと目をあわす。
 店にとっては、ごく当たり前の、日常の風景だ。豆腐屋がきたからといって、何か感動的なことが起こるわけでは決してない。だが、いつもきまった豆腐屋のちゃんこ料理屋への、控えめな出入りは、とてもいい感じがしたものだった。
 その昔は、大きな店や、お屋敷には、出入りの時計屋がいた、という話を読んだことがある。みなれた顔が足しげく、時計屋です、と入ってくる。当然ながら、そう度々、時計を売りにくるわけではない。時計がまだとても大きな機械式で、非常な貴重品だった時代、そこに据えられた振り子時計の、定期的な時刻あわせと、メンテナンスにやってきたのだ。その大店(おおだな)や、お屋敷の、誰からもよくみえるところに置かれた大きな時計の面倒を、ひとりの出入りの時計屋が足しげく通ってみていた。その家の“時”が狂わないよう、時計屋は日々、仕事をしていたのである。
 たとえば植え木屋も、一軒の家を取り巻く“自然”をみまもり、その面倒をみるということでは、この昔の時計屋に似た仕事だ。そんなふうにして、ひとつの家のなかや、家の周りのものごとが、いろいろなエプロンをつけた、出入りのひとたちの手によって、支えられてきたのだ。


 エプロンをつけて自転車に乗ってやってくる書店員も、そうした出入りのひとりであることに違いはない。
 出入りする家や店のなかに、世の中の“新しい出来事”や“愉快な物語”が詰め込まれた読みもの、つまり、雑誌や本を置いてゆく、そうやって家や店のありかたを更新してゆく、という意味では、この時計屋や植え木屋に、ちょっと似ているとも思う。
 それは“時”や“自然”のように、ひとの暮らしを取り巻く根源的なもの、あるいは酒や米や豆腐のように、日々からだを養ってくれるもの、ではないけれど、ひとが暮らしてゆくうえで、やはり貴重で、味わい深いものだ、と思う。そして、相手によっては、ちょっとわくわくした心で、書店員が配達にやってくる日を待っているものだ。


 ぼくはそんな気持ちで青山一丁目の交差点から、雑誌や本を積んだ自転車に乗って、配達に出るようになった。ぼくが出入りの若い豆腐屋と目をみあわせたように、出入りする先で、たくさんのひとたちが、流水書房の書店員であるぼくと、連帯感のあるまなざしで、目をあわせてくれた。ぼくは挨拶をし、ちょっとした冗談をやりとりし、新しい注文を受け、そしてまた自転車に乗って、次の配達先へと向かった。だから、あの界隈の、246(ニーヨンロク)沿いはもちろんのこと、ちいさな路地裏の、古いお屋敷が残る風景まで、ぼくはよく憶えている。エプロンをつけた出入りの書店員として。