旋律的 林巧公式ブログ

旅とおばけと音楽と、小説とごちそうと物語について。

ひとりの編集者の死

h_major2008-01-25

 年が明け、仕事がはじまって間もない九日、新潮社の青木大輔氏からメールが入った。新年の挨拶の後につづけられた、短い文章に、ぼくはあっと驚いた。
“……私の同期であり、友人だった、鳥飼拓志君が、五日に亡くなりました。私は仕事初めの七日に聞きました。……闘病を続けていたとのことですが、全く知りませんでした”。
 ぼくはそこに書かれた事実をきちんと受け止めようとした。だが、うまくいかなかった。メールにはつづけて、国分寺の斎場での通夜と葬儀の日取りが記されていた。通夜は翌十日、葬儀は十一日となっていた。
 鳥飼拓志氏は、ぼくよりも少し若い。二人の息子もまだ幼い。その鳥飼氏の葬儀に出るということは、ぼくの人生のなかでは、まったく考えられない、起こりえないはずのことだった。

 ぼくがメールを開いたのは、九日の深夜、もう日付がかわろうとしているときだった。通夜や葬儀について自分の態度を何も決められず、青木氏へ何の返信もせず、ただむしゃくしゃとした気持ちになって、ぼくはベッドに潜り込んだ。明らかに、ぼくの心は、一晩の間、彼の死を、受け入れなかった。

 翌朝、かわらず日が昇り、明るくなったとき、おなじ太陽のもとに、もう鳥飼拓志氏がいないことを、ぼくはようやく認識した。

 鳥飼氏は、いつも会おうというとき、わけを話さない。ただ「飲みましょう」といってくるだけだった。それで飲んでいると、彼が誘ってきたことには、実はとても大きなわけがあったと、後からわかるのだ。二、三年前、彼から「ちょっと、飲みませんか?」と電話があって、ふたりで飲んだときのことを、ぼくは憶いだした。
 そのときも何事もなかったかのように飲んでから、「実は……」と、彼が話しはじめた。父親が亡くなって、大阪で葬儀を済ませて、帰ってきたばかりだ、という。ぼくは驚いて、彼の心を気遣った。ところが、案外、彼は元気で明るく、生まれてはじめて取り仕切った葬儀のなりゆきを、饒舌に話してくれた。
 お通夜の日、会葬者がひとり残らず帰った後、彼は父親の傍らに寝て、真夜中ふと思いつき、通夜で使ったマイクの電源を入れ、もう一言も返さぬ父に、マイクの音量を上げて、挑発し、怒りをぶつけるようにして、語りつづけた、という。
 彼の実家は、吹田市の豊津(とよつ)という町だった。そのことにも、ぼくは驚いた。彼自身はそこで育ったわけではないという話だったが、豊津は、ぼくが小学生のころ、暮らしていた町だった。中学二年のときに引っ越し、以来、もうずっと豊津には行っていない。だから、その夜は、豊津についての、あれやこれやの話でも、ふたりで盛り上がった。

 青木氏と鳥飼氏は新潮社の同期であり、その年の入社試験の成績が二位と三位という間柄でもある。ただ鳥飼氏は大学院を出ているので、年は少しうえだ。本をつくりたくて、会社に入るのだから、編集者には、根っから本が好きで、博識なひとが多い。だが、それにしても新潮社の入社試験で二位と三位というのは、尋常ではない。すでに知識人として、縦横に活躍できる礎が、入社時点で備わっている、といえる。
 もともと、ぼくを書き手として、彼に紹介したのは、青木氏だった。そのとき、鳥飼氏はすでに新潮社を辞め、漫画の編集者として活躍していた。
 新潮社を辞めた、いきさつについては、彼自身の口からも、青木氏からも聞かされた。彼らふたりは、入社早々に写真週刊誌「FOCUS」編集部に配属され、体力的にも、精神的にも、過酷な取材活動をつづけていた。
 ある日、鳥飼氏は、出張中に、地方の高校野球のグランドの情景を眺めていて、天から啓示を受けたように、“もう、いいや、辞めよう”と決めた、という。それが、彼の言葉による、退社の発端であり、またすべてである。


 辞めて、それで終わりであれば、特に珍しい話でもない。彼の凄いところは、そうして新潮社を離れてから、新潮社にいたとすれば、やりたくてもできなかった漫画の編集者となって、数々の仕事を成し遂げ、再び新潮社に戻ってきたことだ。
 彼は「少年サンデー」などの編集に携わり、ぼくがはじめて会ったときには、吉祥寺にあるコアミックスという会社が編集している「コミックバンチ」という雑誌で、「青の道 プルンギル」という、漫画史上、おそらく初めての、原作者が日本人で、作画が韓国人という、日韓合作の漫画を担当していた。彼は韓国語も、そして中国語も堪能だった。新潮社に復帰してから、インターネット配信という新しいスタイルでのコミック誌「コム・コム」の編集長として、新たな活動をはじめた、その矢先だった。

 シンクロニシティなのだろう。この「旋律的」のなかで、2007年の最後のエントリーとして、12月29日に、ふと憶いだして載せた、河童が香港のバーにあらわれる話――「In an ice cube」が、実はぼくが彼と出会い、アメリカの読者に届けられた仕事のひとつだ。ここ一年ほど、ぼくは彼とは会っておらず、「飲みましょう」と電話がかかって来ないのも、きっと新しい仕事が忙しいからだろう、としか思っていなかった。

 「In an ice cube」が掲載された「Monthly Raijin Comics」というのは、すでに日本国内で読者を獲得している日本の漫画を、吹き出しを翻訳して、北米のコミック市場に出してゆこうという主旨でつくられた雑誌である。「コミックバンチ」の編集を離れた後、彼は「Raijin Comics」のデスクをやっていた。
 だが、根っからの編集者であった彼は、すでに誰かがつくった漫画を翻訳整理して載せるだけでは、面白くなかったのだろう。「Raijin Comics」で、まったく新しい読み物のページをつくりたいということから、ぼくは彼と会ったのだった。
 ふたりであれこれと話し合い、日本の妖怪を、……そんな化けものなど、みたことも聞いたこともない、北米の読者に紹介してゆこう、ということになった。
 柳田國男の定義を引くまでもなく、ふつう妖怪は旅をしない。幽霊は恨めしい誰かのあとをついていったりもするが、妖怪――化けものは、ひとつの土地から離れることはない。その妖怪に敢えて“領土”を離れさせ、旅をさせる。日本ではない、どこかの国を彷徨(さまよ)わせ、その化けものらしさが外国人にも理解可能な小説にして、妖怪と出会うことの驚きを伝えてゆこう、と。彼は大学院で文化人類学を専攻していたから、打てば響くように話が通じ、そんな話をするのは楽しかった。

 国分寺の斎場でのお通夜には、彼らしい、どこかシャイで、にこやかな遺影が飾られていた。
 ぼくは、はじめて会うコアミックスのひとたちや、青木大輔氏を含めた新潮社の、彼と同期のひとたち、また彼の上司だったひとたちと、彼の話をいろいろとした。みな突然のことに、ひどく驚いているようだった。

 コアミックスで、彼が「Raijin Comics」の編集から国際版権の部署に異動となったとき――つまり、編集の現場を追われたとき――も、彼はわけを語らないまま、電話をかけてきて、ふたりで飲んだ。
 編集を離れることは、彼にとっては、仕事そのものを失うことと同義だったのだろう。コアミックスを辞める……辞めないで、一悶着があった。……次の仕事のあてが何もないまま、社長に辞表を突き出したら、“それで、家族の生活は、どうするつもりなんだ!”と、社長に逆切れされた、と、あるとき、彼は飲みながら話していた。そのときの、彼のちょっと寂しげな顔を、ぼくはお通夜の席で憶いだした。
 一度は辞表をしまい込んだ彼は、しばらくしてから、結局、コアミックスを辞め、新潮社へ戻ることになる。逆切れしつつ、彼の家族のために、彼を諭したコアミックスの社長も、お通夜の席にいた。やはり、何も知らされていなかったらしく、突然の彼の死を悼んでいた。
 意外な仲間とも会った。出張取材をともにしたこともある旧知の編集者で、大学の後輩でもあり、今は「プレジデント ファミリー」という雑誌の編集長をしている鈴木勝彦氏だ。聞けば、鈴木氏は鳥飼氏とおなじ町内に暮らしていて、ボーイスカウトの指導者研修を一緒に受けた仲だ、という。鈴木氏は、鳥飼氏の仕事については何も知らず、同業であったということに、とても驚いていた。病気がひどくなってからも、鳥飼氏は痩せたからだで杖をついて、ボーイスカウトの活動に顔を出していた、という。
 鳥飼氏に、どこか顔立ちが似た、彼の弟がやってきて、最期は、親しいひとたちに、みまもられながら、病室で、すっと眠るように、静かに息を引きとった、ということを教えてくれた。豊津の話をすると、鳥飼氏の弟は、奇縁なことに、ぼくと小学校が同窓で、豊津第一小学校を卒業していた。

 お通夜の後、そのままの足で、中央線を二駅乗り、ぼくは青木大輔氏とふたり、国立で降りた。そして「音楽茶屋 奏」という店に出かけていった。ぼくたちは鳥飼氏について、まだいろいろと話し足りないことがあった。……いや、言葉というよりも、どこにも降ろすことのできない、彼への思いがふたりの心には残っていた。そのまま、家に帰る気分ではなかった。

 鳥飼氏が新潮社を辞めた後も、つきあいをつづけていたのは、同期では青木氏ひとりだけのようだった。青木氏にとって、そして、ぼくにとっても、鳥飼氏は、会おうと思えばいつでも会え、飲もうと思えばいつでも飲める――そうやって、ずっと仕事をつづけてゆける――生涯のよき相棒であるはずだった。
 いつだったか――鳥飼氏が新潮社に戻ってくる、ずっと前のこと――鳥飼氏と青木氏とぼくと、三人で、阿佐ヶ谷で飲んだことがあった。うまい台湾料理を出す、路地裏の「のっぺ」という小料理屋だった。
 ぼくが台湾について書いた多くの文章を読んで、鳥飼氏が自分自身も縁があった――彼はひととき、台北に赴任して、日本の人気漫画雑誌の台湾版を、台湾人スタッフを率いながら、編集していた――台湾のうまい料理が食べられる、とっておきの店を予約し、誘ってくれたのである。そこへ出張帰りの青木氏が駆けつけたのだった。
 その夜、鳥飼氏と青木氏は激しく喧嘩をはじめた。きっかけは、著者としての、ぼくとの、つきあいかたを巡る話であった。鳥飼氏が、漫画の編集だけの話ではなく、職業としての編集者のあるべき姿を話しているうち、文芸編集者としての、青木氏のものごとの進めかたや、基本的な仕事のやりかたを、激しく批判しはじめたのである。
 ふたりは殴りあったわけではない。だが、今にも殴りかからんばかりの勢いで、いい争いをはじめた。鳥飼氏は“青木、おまえは編集者として、まったくダメだ!”といい放ち、青木氏は“あんたに、おれの何がわかるんだ!”と声を荒らげた。青臭い職業的な原理、原則をいい争う、学生同士のような、書生のいい争いのような喧嘩だった。三人とも、くたくただった。だが、ふたりの激しい喧嘩から、三人は、なめくじ、蛙、蛇の、三竦みのようになって、帰るに帰れなくなってしまった。
 三人は「のっぺ」を出た後も、河岸を変え、結局、朝方近くまで、ともにいた。最後まで、ふたりの喧嘩は、まったくおさまらなかった。解散したのは、手打ちをしたからではない。時間切れ、ノーコンテスト、になったからだ。

 その夜のことを、鳥飼氏が息を引きとった今、憶いかえしてみれば、なりたくてなった自分自身の職業について、夜を徹して、真正面から、それだけの激しい喧嘩ができる好敵手がいた、ふたりは、ともに幸せであった、と思う。そこに、ふたりの編集者の著者として、相棒として、立ち会うことができたぼくも、また幸せであった。

 ビルの地下にある「音楽茶屋 奏」の扉の前にゆくと、なんとライヴの休憩中だった。このちいさな店は、他ではまず聴けないような、PAを使わない、楽器の響きだけの素晴らしいライヴを定期的にやっていて、だから、ぼくは贔屓にしていた。
 だが、店でライヴがあるのは、日曜の夜と決まっていた。そして、その日は木曜だった。おやっと思いながら、ぼくがガラス扉越しに、店のなかを覗き込んでいると、扉の外で休憩していた、ライヴの奏者のひとりが“前半が終わったところだけれど、よかったら聴いていって……”と勧めてくれた。じゃあ、とふたりはわけもわからないまま、店に入った。
 後でわかったことだが、そういって勧めてくれたのは、バンド「生活向上委員会」や「RCサクセション」で一世を風靡した、サキソフォン奏者の梅津和時氏だった。その夜の、曜日をかえた変則的なライヴは、サキソフォンとバス・クラリネットの梅津氏を中心に、チューバの関島岳郎氏、トロンボーンの中尾幹二氏の三人の奏者による金管三重奏だった。

 店に入ると、すでに席は一杯で、補助椅子をもってきて、新しい席を演奏場所のすぐ近く、真正面にしつらえてもらい、ぼくと青木氏は席についた。ほどなく、ライヴの後半がはじまった。ぼくたちが座ったのは、そのために神様が用意してくれていた、としか思えないような、ほんとうに奏者の目の前だった。梅津氏は座って演奏するとき、大きくて長いバス・クラリネットのおしりを、床に置いたちいさな台――たぶん、ギターの足台だと思うけれど――に乗せた。ぼくたちが音楽を聴いたのは、そっと手を伸ばせば、その台に指が届きそうな場所だった。
 ぼくたちふたりは何も語らず、朗らかに明るく、それでいてどこか悲しげな音楽に、じっと耳を澄ました。聴きはじめて五分もしないうちに、ぼくは自分が抱え、降ろす場所がなかった、鳥飼氏への思いが、サキソフォンが奏でる音楽のなかに、ゆっくりと取り込まれてゆくのを感じた。ぼくには、すぐ目の前で奏でられている金管三重奏が、彼の葬送の音楽であり、その響きがぼくたちふたりにきちんと届くように、天上の神様がすべてを用意してくれていた、としか思えなかった。青木氏も、そう感じた、と思う。