旋律的 林巧公式ブログ

旅とおばけと音楽と、小説とごちそうと物語について。

香港の鳥女

h_major2008-04-03

 鳥女をヴィクトリア・パークのテントのなかでみてから数日がたった。そして一九九六年の大晦日がやってきた。
 ぼくは尖沙咀(チムサーチョイ)の香港文化センターで催された、香港フィルハーモニー・オーケストラのウィンナ・ワルツの演奏会にでかけた。香港フィルは香港では唯一のプロフェッショナルのオーケストラである。当然のことながら、植民地時代はイギリスからやってきた音楽家たちを中心にして、ヨーロッパの音楽的教養をもとにした運営がつづけられていた。ニューイヤーズ・イヴの華やかなコンサートには、大勢のイギリス人が香港中からつめかけていた。それは香港にとってはただのニューイヤーズ・イヴではなかった。翌一九九七年は、香港が中国に返還される特別な年だった。
 年のかわりめをワルツで過ごすというのは、ウィーンでウィーン・フィルがいつもやる趣向をもらったものだろう。ワルツで音楽がまわり、まわっているうちに、身につまった一年分のエントロピーを落としてゆく、というやり方は悪くはなかった。だが、それは会場に着飾ってやってきた、大勢のイギリス人たちにとっては、少しばかりしんみりとしたワルツになった。
 彼らの大部分は、来年のニューイヤーズ・イヴには、もうここにはいないだろう。こうやって尖沙咀のコンサート・ホールで、自分たちがつくってきたオーケストラの音楽を聴くことはもうない。珠江のほとりに築かれた、詩的なまでに美しい香港という都市で過ごしたひとときは、もはや永遠にかえってはこない。それは遥かな過去の川辺へと流されているはずなのだ。
 指揮者は香港に生まれて、すぐにアメリカに移民し、やがて音楽家となった、まだ若い中国系アメリカ人だ。曲目はヨハン・シュトラウス二世の“皇帝ワルツ”や“雷鳴ポルカ”など、おなじみのものばかりだった。
 率直にいって、とてもうまい演奏という感じではなかった。劇的でも、詩的でもなかった。だが、ウィンナ・ワルツとはそういうものではなかった。客席のイギリス人たちはみんな心地よさそうだった。
 ぼくは高校生のとき、学校のオーケストラでウィンナ・ワルツを弾いた経験がある。日本人がことに好きなヨハン・シュトラウス二世の“美しく青きドナウ”、そして“芸術家の生涯”だ。ヴァイオリンでも弾き、ヴィオラでも弾き、パーカッションもやった。このウィンナ・ワルツというものは、ある意味では、ベートーヴェン交響曲を弾くことよりも、難しかった。
 ウィンナ・ワルツは他のワルツとはまるで違い、二、三拍めが少しずつ前のめりになるところにリズム上の特徴がある。つまり、楽譜どおりに弾いてはいけないのだ。そこでぼくたちは頭のなかで、架空の専用楽譜を思い描きながら、その特別なリズムを何度も練習するのだが、やはりどうもうまくいかない。仮に、それでは二、三拍めを十六分の一とか、三十二分の一という単位で、リズムを揺らせようと決めて、どれだけ正確に弾いたところで、そんなものはワルツではない。
 それは子供の音楽ではなかったのである。いったい、なんのために二、三拍めをずらすのか、と感じているうちは、まるでだめだった。波が打ち寄せて、引きかえすことに理由はない。リズムとはそういうものなのだ。物理的な説明はあったとしても、ひとが波の打ちかえしに心を惹かれるのは、その理由のためではない。
 ぼくは尖沙咀の輝かしいコンサート・ホールで、ウィンナ・ワルツを聴きながら、さざ波のようにいつまでも永遠につづく、そのワルツのリズムを身に刻みつけていた。ひとつの大きな謎がやっと解けた気持ちになっていた。それは疲れたひとの心とからだを少しずつ癒すのだ。浜辺に打ち寄せる波音とおなじだった。かえって劇的でもない、詩的でもない、はじめも終わりもないようなウィンナ・ワルツのリズムが、どうすることもできない世俗の疲れを少しずつ洗い流してくれるのである。
 コンサート・ホールを埋めた大勢のイギリス人たちは、しんみりとした面持ちで、そのウィンナ・ワルツのさざ波のようなリズムに身を浸すようにして、香港フィルの演奏を聴いていた。


 やがて、休憩時間となって、ぼくはホールからロビーへと降りていった。あらかじめ予約していた飲みもののチケットで、幕間の赤ワインを飲みはじめた。大勢のイギリス人たちもまたワインやらシャンパンやらを飲んでいる。その人声のざわめきのなかにも、どこかしんみりとした響きが、ロビーの高い天井へとたちのぼっていた。
 おや、とぼくは感じた。そうしたイギリス人たちのなかで、はっきりと気配が違うものが、どこかで動いている。漫然とロビーのひとたちをながめていた、ぼくの視界の隅をそれは通り過ぎていった。あっ、とぼくは思わず声をあげそうになった。動きがぎくしゃくとして、身にまとっているものも違っていた。
 それは鳥女だった。この香港文化センターの幕間のロビーのざわめきのなかを、鳥女が歩き回っていたのである。
 鳥女はシャンパンを飲んでいた。そして忙しなく首をあちこちに向けながら、ロビーを舐(な)めるように、ながめまわしていた。大きくて奇妙なかたちをした白い帽子をかぶっていた。帽子からは極彩色の羽がいくつもとび跳ねていた。夫なのだろうが、夫というよりも従者といった面持ちで、ひとりの正装をした老人が、鳥女につき従っていた。イギリス人たちはロビーのざわめきのなかで、今まさに目の前を過ぎ去ろうとしている一九九六年を、名残惜しいものとして噛みしめつづけている気配があった。
 けれども、鳥女はそんなロビーの支配的な雰囲気にはまったくお構いなしであるようだった。“まったく、なんて気の抜けた、ひどいシャンパンなのかしらねえ!”とでも考えていそうな、皺の寄った顔つきだった。鳥女は一見すると、ロビーをみまわしているようでいながら、そのちいさな目には、すぐ目の前のシャンパン・グラスしか入っていないようでもあった。
 それにしても、滅多にみることができるものではない。ぼくは休憩の間、ずっと鳥女を遠くからみつめつづけた。あまりに奇妙で、見飽きることはなかった。やがて、休憩終了のベルが鳴り渡った。ロビーでざわめいていたひとたちは、ホールへと戻っていった。ぼくは動きはじめたイギリス人たちの間で、すぐに鳥女を見失った。


 コンサートは滞りなくつづけられた。延々と演奏されて、まるで終りがないかに感じられたウィンナ・ワルツも、やがてそのリズムを止めるときがやってきた。プログラムが終了するときがやってきたのだ。
 すべての演奏曲目が終わったとき、イギリス人たちは拍手をちいさくはじめて、そしていつまでも、いつまでも永遠に拍手はつづいた。アメリカ人の指揮者は幾度となく、舞台袖から呼び出された。あるいはイギリス人たちは拍手を止めて、すべてが終わってしまうことが、怖かったのかもしれない。
 指揮者は拍手を客席で止めようとしないイギリス人たちをそっと制して、アンコール・ピースを振りはじめた。高らかに鳴り響く、金管のファンファーレではじまる“ラデツキー行進曲”だった。
 ひょっとして、ぼくもまた客席の大多数のイギリス人たちの雰囲気に呑まれてしまったのだろうか。幼いときから運動会などで耳にしつづけてきた行進曲が、まるで違ったメロディの曲であるかのように、耳に響いてきた。
 行進曲がはじまってしばらくすると、数人の観客がぽつりぽつりと曲にあわせて手拍子を打ちはじめた。手拍子を打つひとの数は瞬く間に膨らんで、あっという間に客席にいたひとたちがひとり残らず、“ラデツキー行進曲”にあわせて精一杯の手拍子を打っているような勢いとなった。ぼくももちろん打っていた。この行進曲のリズムもまた疲れたイギリス人たちを癒しているようだった。
 アンコールの演奏がはじまったとき、それは今しも目の前を過ぎ去ろうとしているクラウン・コロニーの繁栄をたたえる凱歌であるかのように響いた。行進曲は威風堂々とつづけられ、満座の手拍子があとをつける。やがて最後のテーマがあらわれたときには、あと二時間ほどで始まる一九九七年の凱歌としての響きに変貌してしまったように、ぼくには聴こえた。
 その行進曲が終わって、打つべきリズムが失われても、イギリス人は拍手を止めなかった。いつまでも、止むことなく拍手をつづけていた。客席で立ち上がって拍手するものも大勢いた。
 若い指揮者は、これでほんとうに最後です、という顔をして、再び指揮台に上った。軽やかなポルカのリズムがホールに響きはじめた。“シャンパン・ポルカ”だった。この演奏にはちょっとした仕掛けがあった。シャンパンのコルクを抜くときの、ぽんという響きが、この“シャンパン・ポルカ”では音符として書かれているのだが、そこで数人の管楽器とパーカッションの奏者が、舞台のうえでほんもののシャンパンを抜いたのだ。それからシャンパンを注ぎあって、飲みながら、演奏をつづけたのである、客席は大喜びだった。


 演奏会が終わって、ようやく香港文化センターから出てきたときは、もう夜の十一時近かったと憶う。
 ヴィクトリア港の向こうに、香港島に建ち並ぶ高層ビルの輝きが美しくみわたせる、尖沙咀の香港文化センター近辺は、いつの間にか驚くほどのひと込みとなっていた。香港という土地はヴァラエティに富んだ居場所があるようでいて、実はさほどない。祝日や集会など、なにかがあったとき、ひとが大勢集まってくることができる場所は限られている。それは香港島であれば、ヴィクトリア・パークであり、九龍市街地であれば、この尖沙咀の海沿いのエリアだった。
 尖沙咀の海に面したプロムナードでは、老若男女さまざまなひとたちが夜風に吹かれながら、ヴィクトリア港の向こうの香港島のネオンの輝きをみつめていた。クリスマスよりこちら、さまざまに趣向を凝らしたイルミネーションが、香港島のあちこちの高層ビルの壁面や屋上で輝いていた。
 イギリス人だけが、ときの流れを噛みしめていたわけではない。当然のことだが、この街に暮らしつづけてきて、これからも暮らしつづける、大多数の香港人にとって、このニューイヤーズ・イヴは特別なものであった。
 ぼくはそんなひと込みのなかを、心地よくさまようように歩きつづけた。ひとがあまりにも大勢いるためか、もう夜中だというのに、まるで日暮れどきのような、ほのかな熱気が尖沙咀の空気にはこもっていた。ぼくは屋台の飲みもの屋でカールスバーグの缶ビールを買って、海に面したプロムナードの二階に上った。
 そこでは、さまざまなひとたちが、香港島の輝きと、海を行き来するちいさなスター・フェリーを、じっとみつめていた。若い恋人たちが大勢いた。ただ黙って風景をみつめている夫婦も大勢いた。彼らはもはや恋人同士ではなく、さほど若くもなかったが、それでも恋人たちのようにぴったりと寄り添っていた。そんなひとたちの合間には、カメラで夜景を撮りつづけている少年がいた。赤ん坊を連れた母親もいた。杖をついた老人もいた。ぼくもそんなひとたちの間に座って、缶ビールを飲みながら、香港島をながめた。
 あと、わずか一時間で、とてつもなく長く感じられた一九九六年も終りだった。そして今年と、来年とは、香港ではおなじ年ではなかった。
 しばらくして、ぼくは二階から降りていった。そしてプロムナードをあてもなく歩きはじめた。
 あっと感じた。またあらわれたのだ。遠めにもすぐわかった。ロビーでみた鳥女だった。大勢の香港のひとたちのひといきれのなかで、あの白い帽子をちらほらと頭上に覗かせながら、ぎくしゃくと動いている。
 ぼくは鳥女の得体のしれない力に引き寄せられたようだ。ひと込みをかきわけるようにして、少しずつ、ぼくは鳥女のいるところへ近づいていった。
 香港文化センターのロビーがそうであったように、この尖沙咀のプロムナードもまた鳥女が動いているあたりだけが、まるでときの流れが違っているかのように感じられた。鳥女はその皺くちゃな顔を忙しなく動かして、あたりを睥睨(へいげい)しながら、従者のような夫に向かって、ぶつぶつとなにやら文句をいいつづけていた。
 ロビーではみかけなかった、もうひと組の夫婦が、いつの間にか、そばにつき従っていた。その歳老いたふたりもニューイヤーズ・イヴらしく、めかしこんでいた。近くでみつめてみると、その二組の夫婦はイタリア人のようにみえた。あるいはギリシア人のようにもみえた。
 鳥女は四人の行き先を、ひと込みのなかできり拓いて歩くようにして、ぎくしゃくと進んでいた。一行は海に向かっているようだった。ぼくもまた鳥女を見失わないようにして、プロムナードの海のほうへと歩いていった。
 やがて大勢のひとたちがみつめつづけるヴィクトリア港を、豪華なヨットが尖沙咀のプロムナードめざして、ゆっくりとやってきた。そのヨットをみつけたひとの間で、ちょっとしたざわめきが起こった。プロムナードにはヨットの係留ポイントがあり、ヨットはそこに接岸した。
 このひと込みのなかで、ひとにぶつからず、ただ歩いてゆくだけでも大変なことだったのだが、鳥女たちは他の香港人たちとは余りにも風体が異なっていたため、かえってまわりのひとたちが避けていた。もっとも少しでもふれようものなら、いったいどんな反応を示すかわかったものではない、と想わせるところが、鳥女にはあった。やがて一行は係留ポイントへと辿りついた。
 彼らは鳥女を先頭にして、そのヨットにぎくしゃくと乗り込んだ。プロムナードにいた大勢の香港人たちはいぶかしげに、その様子をみつめていた。鳥女たちはヨットの甲板で乾杯をはじめた。暗い海にほのかな白い航跡だけを残して、ヨットはゆっくりと新しい年に向けて船出していった。


 やがて一九九七年がやってきた。ぼくは尖沙咀のざわめきのなかで、大勢の香港人たちとともにカウントダウンをして、クラウン・コロニーが終わる節目の年を迎えた。それから地下鉄に乗って、ヴィクトリア港を渡った。


……「香港の鳥女」より