旋律的 林巧公式ブログ

旅とおばけと音楽と、小説とごちそうと物語について。

庭のブランコに揺られるマリ

h_major2008-05-13

 マリという名は母がつけたものだ。そう聞かされて、幼いマリは育った。父はフランス人のようだといって、最後まで抵抗したらしい。けれども、母が押し通してしまった。生まれてくる赤ちゃんが男の子だったら、父が名前をつけ、もし女の子だったら母がつけるという約束が、夫婦の間ではなされていた。それを盾にして、マリで通したのである。マリの父はカンタベリー生まれのイギリス人で、母は神戸生まれの日本人だった。
 マリは家の庭に置かれたブランコに揺られて、海をみおろしながら、母と話をすることが大好きだった。マリの記憶のはじめにあるのは、あの青くてきれいなブランコと、緑色に輝く海だ。母はいつもマリのそばにいて、心地好くブランコを揺すって、いろいろな話をしてくれた。
「ねえ、ママの生まれた国にも、海はあるの」
「あるわよ。とてもきれいな海が。世の中にはね、ふたとおりの国があるの。海がある国と海がない国……」
「ふうん」
 マリはブランコの向こうで揺れる海をじっとみつめた。
「じゃあ、海っていっぱいあるのね」
 母は優しく微笑んだ。
「そうね。……ママもね、マリとおなじように、お家のお庭から海と山を眺めながら大きくなったのよ」
 マリには、自分がとてもきれいなママとおなじ育ちかたをしていることが、どこか得意に感じられた。海がない国の人は少しかわいそう、とも思った。
「マリが生まれた病院も、海のすぐ近くだったのよ。ママはね、かわいい顔をして、すやすや寝ている、生まれたてのマリの顔を毎日みつめて、それから病院の廊下の窓から海をじっとみて、とてもしあわせな気持ちだった」
「その病院はママの国にあったの」
「そう。マリは覚えてないわね。生まれて半年ほどで、この香港のお家へ来ちゃったんだから」
 マリは赤ちゃんの自分を覗きこむしあわせそうなママの顔が、心のどこかで憶いだせそうな気がした。
「マリは生まれたときから、マリだったの」
 母はブランコを揺すりながら嬉しそうに笑った。それから声をちいさくして、そっといった。
「そうよ。いい? これは内緒よ。ママはね、パパと結婚するずっと前から、それこそ、まだ今のマリくらいにちいさなときから、いつか誰かのお嫁さんになって赤ちゃんが生まれたら、きっとマリって名前にしようって、心にかたく決めてたの。だからね、マリは生まれたときから、マリだったのよ。かわいいマリがやってくることが、ママにはずっと前からわかってたの」
 マリが七歳まで暮らした香港の家には、マリの好きなものがみんなあった。青いブランコが置かれた広々とした庭は、暖かな海を眼下に望む高台にあり、パプリカ色をした美しいテラコッタで整えられたテラスを通じて、イギリス式の居間とつながっていた。テラコッタのなかには虎や龍のかたちをしたものや、またおなかがでっぷりと太った、おかしな妖精の姿をしたものがあった。
 天気がよく、過ごしやすい朝や、のんびりとした週末など、マリの父と母は、そのテラスに置かれたスペイン製の木製テーブルとチェアで、朝食を摂った。そんなとき、マリもはじめはおとなしく座り、チェダーチーズやレバーパテがきれいに挟み込まれたサンドイッチを食べていたが、やがて陽光と海の輝きに抗しきれなくなって、父と母の顔を覗き込みながら、庭へ飛び出していってしまうのが、常だった。
 そして気が向くと、またテラスへと舞い戻って、サンドイッチを摘んだ。ときには、嫌いなピクルスをひっぱりだして、そっと捨て、あるいは好きなチーズだけを白いパンから引き抜き、魚のように大きく口を開けて、投げ込んだ。
 そんなことをダイニング・ルームでやれば、マリはなんてお行儀が悪い子だ、とたちまち父に叱られた。だが、テラスでは、そんな父も大目にみてくれた。そのことを知っていて、マリはますますはしゃいで、お行儀の悪い子になってしまうのだ。けれども、そうやって、お行儀の悪いことが公然とできる場所と時間があることが、マリにはとても嬉しかった。むしゃむしゃとチーズを食べながらブランコを漕いで、テラスのテーブルをふりかえれば、父はいつも笑いながら手をふってくれた。そんなとき、母はとてもしあわせな顔をしていた。そんな父と母の姿を、庭のブランコから眺めることが、マリは何よりも大好きだった。


……「マリ」より