旋律的 林巧公式ブログ

旅とおばけと音楽と、小説とごちそうと物語について。

竹湾酒店(ポウサダ・デ・コロアネ)で薔薇色のワインを撒く毬奈

h_major2008-09-30

 竹湾に打ち寄せてくる波の音を聞きながら、毬奈はほんのりと顔を赤らめて、ひとりぼんやりと海を眺めていた。ようやくひと心地ついたという感じだ。こんな地の涯てのホテルにしては、たっぷりとひろいバルコニーに、エクステリアの真っ白なテーブル、そして椅子が二脚、置かれている。
 マカオのなかでも、まずひとめにつきにくい、ちいさな島の鄙びた海沿いに、ホテルはひっそりと建っていた。フィリピン人のレセプショニストやメイドは、香港よりも、よほど親切だった。だが、なんともいえない、心寂しい空気が、こぢんまりとした別荘のような部屋数の少ないホテルを覆い尽くしていた。
 毬奈はひとりだった。その一脚の椅子に、毬奈はフェリーターミナル近くのブティックで買ったばかりの真っ白なドレスの裾をはだけるようにして、寝そべっていた。まるで目にはみえないハンモックに、あられもない格好で、だらしなく寝そべるようにして、もうひとつの椅子にはだけた両脚を投げだしている。こうしている瞬間にも、白い肌がイギリスパンのように音をたてて、香ばしく焼けてきそうな気配だった。そんな強い太陽が毬奈には心地よかった。どこか場違いだと感じながらも、ずっと履きつづけてきたフェラガモの靴は、さっきバルコニーの隅に足首のスナップで放りだしたままだ。
 テーブルの上には、タイパ島のスーパーで手に入れたばかりの背が低く、そのかわりに頑丈そうなワイングラスがふたつ、それからポルトガルのロゼ・ワインが置かれている。グラスがふたつあるのは、二個を一セットにして安売りしていたからだ。
 毬奈はまずひとつのグラスにワインを注いで飲んでいた。太陽に照りかえされるワインの淡い薔薇色があまりに美しいので、やがてもうひとつのグラスにもワインを注いだ。
 さして高くもないワインだが、シャンパンのように淡い泡をいつまでもちいさな溜め息をつくように発していた。はじめは美しい絵でも眺めるような気持ちで、観賞のためのグラスにしようとしたが、二、三杯のグラスを空けるうちに、そんなケチな考えに嫌気がさしてきた。そもそも自分はものごとを心静かに観賞するようなタイプの人間ではない、という気もはっきりとしてきた。それから、神さまにもこのおいしいお酒を飲ませてあげよう、と思いついた。
 毬奈は裸足のままバルコニーに立ち上がると、ふたつめのワイングラスを手にして、すぐ手に届きそうなところにひろがっている海と空に向けて、力一杯に撒いた。薔薇色の美しいワインは、竹湾に打ち寄せてくる波までは届かなかった。だが、砂浜と空と、この竹湾ホテルのバルコニーとを、結びつけるようにして、きれいに宙を散った。その滴のいくつかは毬奈の髪を心地よく濡らした。毬奈は優しい気持ちになって、海の向こうに囁いた。
「神さま、あとまわしになって、ごめんなさいね」
 毬奈はふとなにものかのまなざしを感じて、眼下の海を眺めた。二階になっているバルコニーのすぐ下の海辺の道から、ひとりの少年が、こちらをみあげていた。中国系マカオ人ではなく、ポルトガル人の血を引いた少年だ。レトロなスタイルの白い開襟シャツを着ている。アイロンしたてのぱりっとしたシャツには、ロゼ・ワインの薔薇色のしみが肩から胸にかけて点々とついていた。毬奈はあっと驚いて、どきまぎとしながら英語で謝った。
「あ、ごめんなさい!」
 少年は首を突き出すようにして、バルコニーの影から毬奈を仰ぎみて、とても驚いた顔をした。
「待って」
 毬奈はもうしわけなさというよりも、実利的な考えから、このまま放ってはおけないと考えた。こんな辺鄙なところで、よそものとして恨みを買って、仕返しでもされた日にはたいへんだ。毬奈は財布をひっつかむと、ホテルの廊下と階段をどたばたと走って、何が起きたのかと驚くフィリピン人のレセプショニストを尻目に、バルコニーの真下の道まで駆け出した。
 けれども、もう少年の姿は道のどこにもみえなかった。ずっと一本道だというのに、少年はどこへ消えたのだろう。毬奈は溜め息をついて、しばらくひとり南の太陽に照らされていた。それから、ホテルに戻って、気を鎮めるために、玄関口の籘製ソファに腰掛けた。そしてレセプショニストのメイという名のおばさんにぽつりぽつりと事情を話した。
「……大丈夫かしら?」
 毬奈が不安げに訊くと、メイは持ち前の朗らかな笑顔でからからと笑いつづけた。
「あんた、そんなことまで気にしてたら、生きてゆくの、たいへんでしょう。……でも、どうしてそんな酔狂なことをしたの?」
「神さまにお酒をあげようと思って」
「あら、神さまがふりかけたのなら、なんの心配もいらないわ!」
 そういい残して、メイは事務所の奥へと戻っていった。毬奈はしばらく籘製ソファでぐったりとしていたが、やがて自分の部屋へと帰った。そしてベッドにごろりと横になった。
 せっかくのマカオで、ただ気持ちよく、ワインを飲もうとしただけなのに……。厚手のべッドカバーは濃い薔薇色で、クローゼットはトランプの“ダイヤのエース”ばかり上下左右にずらりと並べたような美しい彫り込みのある木製、その隣の冷蔵庫は目の醒めるようなイエローだ。こういうのをポルトガルふうというのかしら、と毬奈はべッドで横になったまま、ぼんやりと思った。このホテルの正式な名前も、ポウサダ・デ・コロアネである。到着したときにメイに訊いたら、ポルトガル語で“コロアネ島の宿”という意味だと教えてくれた。


……「コロアネ島の少年」より