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旋律的 林巧公式ブログ

旅とおばけと音楽と、小説とごちそうと物語について。

囃子の響きとともに

h_major2009-12-25


 囃子を府中、中河原に習いに行きはじめて、もう三年が過ぎた。お祭りのとき、山車のうえから囃したてる、あの祭り囃子だ。その囃子連の忘年会があり、高橋忠行氏の話になった。中河原の囃子連のみんなは、今年はタダユキが……と声を落とした。
 彼は、ぼくにとっても、中河原に行くようになってから、ちょうど箸の持ち方も知らない幼子にご飯の食べ方を教えるようにして、囃子というものを、一から教えてくれた先生だ。今年も、大国魂神社のくらやみ祭り、中河原の御嶽神社のお祭り、そして、府中市制五十五周年を祝う山車と太鼓のパレードと、お祭りがある度に山車のうえから、中河原の囃子連はいつものように華々しく囃したてた。それは一見すると、去年、一昨年、一昨々年と、かわりがないようにも感じられたが、ひとつ、決定的に違うことがあった。
 それは、中河原の山車のうえにも、山車の周りにも、彼がおらず、山車の巡行中、彼が一度も笛を吹かず、太鼓も叩いていない、ということだった。この一年のお祭りは、そのことを――そこに必ずいるはずの彼がいないということを――中河原の囃子連は、口に出して多くを語りはしないものの、ずっと噛み締めているようにみえた。


 彼は詩人のようだった。
 中河原の練習場で、彼に太鼓の打ち方を教わっているとき、あるいは酒の入る席で囃子についてあれこれと話をしているとき、詩人と話をしているような感覚にとらわれたことが、ぼくは何度となくあった。
 詩的な言葉を、彼は上辺で使いはしない。ごく日常的な言葉をひとつひとつ、決して間違いのないように選び、その意味内容をみつめながら囃子を教え、囃子についての話をする。その厳密な言葉使いが、気高い詩人を想わせた。周りのひとたちがまだ気づいていないとき、確信をもって“そのこと”を知っているのが、詩人だ。目にはみえないけれども、未だ多くのひとたちが気づいていないけれども、そこにはっきりとあるものについて、詩人が語るときの、厳密さと雄弁さが、囃子についての、彼の言葉にはあった。
 彼のまさざしも、また完全に詩人の、深い目のようだった。ほんの微かに憂いを帯びた、彼のまなざしは、今、この場から遥かに遠く、けれども間違いなくこの世にある、囃子そのもののはじまりから、彼が太鼓のバチを持ち、笛を構えている、目の前のこの場所までを、一ミリの狂いもなく捉え、みつめているように感じられた。
 だから、囃子のひとつひとつの演奏について、彼から、どうですか、……どう思いますか、……どう感じますか、と訊かれると、詩人に問いかけられた気がして、居ずまいを正した。囃子について、彼が教えるとき、そして話をするときは、いつもそうだった。


 今年の春休み、ぼくは息子を連れて、ボルネオ、サバ州のキナバタンガン河流域で、キャンプを張っていた。そうやって、ボルネオにいる間の、三月末に彼が亡くなった、と、帰国後に知らされた。
 ここしばらく闘病をつづけていて、去年の暮れから、あまり囃子の練習にも出て来られなくなり、からだの具合を案じていたのだが、最後は自宅で、看護師の資格をもつ奥さんと過ごしていた、との話だった。享年は三十六だった。
 弔問にお邪魔すると、お祭りの“総代”であり、“山車巡行責任者”のたすきをかけた、晴れやかな笑顔の、彼の遺影が飾られていた。そうした遺影を目の前でみても、まだ若過ぎる彼がほんとうに亡くなったということが、信じられない思いがした。


 それから、一か月と少し、五月はじめの、くらやみ祭りがやってきた。
 中河原の山車には、囃子のこどもたちの踊りや、太鼓をみおろせるところに、彼の遺影が掲げられた。彼の、まだ幼い息子も、ずっと囃子の踊りを習っていて、山車のうえで踊った。彼の娘は太鼓を叩いた。彼の奥さんは山車と連れ添うように歩いた。中河原の囃子連は、みんな袖や胸元にちいさな黒い喪章をつけ、山車は、彼の遺影とともに、いつものように囃したてながら、中河原から大国魂神社へ、ゆっくりと向かって行った。
 くらやみ祭りのためにやってきた総勢二十一台もの山車行列は、いつものように大勢の、お祭りの見物客で賑わう府中の街中を、晴れやかに巡行し、中河原の山車も、その一群のなかで、ひときわ華々しく囃したてた。
 ときおり遺影をみあげながら、彼の魂とともに山車はある、ということを、みんなは感じていた。一方で、彼は笛も吹かず、太鼓も叩かない、にもかかわらず、今年のお祭りの“総代”でも“巡行責任者”でもない、そのことで――あの詩人の深いまなざしが今、ここにない、ことで――晴れやかなくらやみ祭りの場に、ぽっかりと空いた穴のようなものを、みんなは感じていたように思う。
 夜になり、山車が大国魂神社から中河原に帰って来ると、山車は商店街の路地に入ってゆき、彼の実家の店の前で止まった。そして、店のすぐ前に出された白いテーブルのうえに置かれた、彼の写真のまなざしを受けながら、彼の店に向かって、ひときわ大きく囃したてた。彼とずっと一緒に囃子をやってきた中河原のひとたちは、太鼓を叩きながらも、目をまっ赤にして、からだをふるわせて、泣いていた。
 もとより囃子はめでたいお祭りのときに鳴る、お祝いの響きである。だが、くらやみ祭りの夜、中河原で鳴り響いた、ひときわ激しい、祭り囃子は、この世の喜びを共鳴させるときとおなじように、悲しみをも包み込んで響いているように感じられた。


 タダユキがいなくなるなんて、考えられなかったから……と、忘年会の夜、中河原の囃子連のみんなはいった。みんなの胸のなかには、それぞれのタダユキが今もはっきりと佇んでいる。囃子を通して、わずか三年のつきあいしかもてなかった、ぼくにとっても、それはおなじだ。ぼくの胸のなかにも、あの詩人のまなざしと、言葉使いをもった彼が、いつもの表情で佇んでいる。彼は、中河原の囃子の響きのなかに生きている。彼がやってきたことは、中河原の山車が響かせる、華やかな囃子のなかで、いつまでもずっと鳴りつづけるだろう。