旋律的 林巧公式ブログ

旅とおばけと音楽と、小説とごちそうと物語について。

乃木坂にやってきたリチャード・ワイルド

h_major2010-05-25

 乃木坂の地下に、蝙蝠(こうもり)がこもる洞窟のようにしてつくられた、あまりひとけのないバーの片隅で、私はひとり酒を飲んでいた。
 木目が飴色になった八人がけアンティーク・テーブルに、私は座っていた。カウンターには二、三人の客がいたが、私の他に、テーブルに客はいない。洞窟のずっと奥には、スピネット・タイプのちいさなピアノが置かれていて、手持ち無沙汰の従業員が通りすがりに、ぱらりぽろりとでたらめなメロディを叩いている。
 私はあまり機嫌がよくなかった。ころあいからして、いつもならいるはずの老林(ラオリン)が、青山一丁目の琴楽事務所に、いなかったのだ。いつかのように鍵が開いてもおらず、ドアはびくとも動かなかった。明かりも消え、ひとがいる気配もなかった。私はがっくりと肩を落として、木枯らしが吹き寄せる外苑東通りを、ひとりこの酒場までやってきたのだ。
 私は鞄から「琴楽」を取り出して、ビールを飲みながら、ぱらぱらと眺めていた。老林はあいかわらずの毒舌や、奇(あや)しいレトリックで、幾つものクラシックCDのレヴューを書いていた。
 ひとつのレヴューで、私の目は止まった。老林は常ならぬ調子で、私がこれまでその名を耳にしたことのない、あるピアニストのとても古いピアノ・ロールからの復刻版を褒めそやしていた。


 ……これこそが、天から降りてきたピアノ弾きの仕事である。彼がピアノに尽くしているのではない。ピアノが彼に尽くしている。そのひとつひとつの鍵盤、一本一本のハンマー、一枚一枚のフェルト、三本のペダル、無骨な響板、それらすべてが、彼に身を捧げている。そのようなピアノ弾きは、世に幾人もいない。そうなのだ。私はよく知っている。彼こそが、懐かしい、あの……


 ふとひとの気配を感じて、目を上げるとアンティーク・テーブルの前に、ひとりの白人男が、突っ立っている。
 髪の半ば以上を占める銀髪のせいか、四十代はじめにも、あるいは六十代はじめにもみえる。薄手の黒革コートに、淡いグレーのスラックス。それだけなら、年相応に落ち着いた、もっといえば地味な身なりの中年男だ。けれども、男は目の醒めるようなオレンジ色をした、チェロのハード・ケースを抱えていた。そのハード・ケースには、私がみたこともない、大学の美しい紋章や、またどこかのオーケストラの団員であることを示すきらびやかなシールが、貼られていた。
 男は私をみていたのではなかった。私が手にしていた「琴楽」の表紙を、驚きの表情で、食い入るようにみつめていた。やがて、私と目があうと、ゆっくりとした英語で訊いてきた。
「ちょっと、みせてもらえるか?」
 私は意外な気持ちで、男をみつめた。男の声には、穏やかななかにも、拒絶を許さない強い調子があった。
「どうぞ……」
 断る理由もなかったので、私は「琴楽」を男に手渡した。男は日本語がわかるようには、みえなかった。にもかかわらず、しばらくあちこちのページをながめて、やがて深い吐息とともに、私にかえしてきた。
「……おなじだ」
「おなじ?」
 今度は私が驚いて、男の顔をみあげた。
「おれが覚えているものとね。……この雑誌をみたことがある。おれの知り合いが、いつも愉しそうに読んでいた。表紙も、レイアウトも、なにもかも、これぽっちも変わっていない……。ただ、日本語だということの他にはね」
「そのおなじ雑誌は、日本語じゃなかったのですか?」
「ああ。中国語だった。どちらにしても、おれには読めないがね」
「それをどこで?」
「香港だ」
 男ははじめて私の顔をじっとみると、穏やかにいった。
「ここで飲んでもいいかな」
「もちろん、どうぞ」
 彼は抱えていたチェロのハード・ケースを、アンティーク・テーブルの脇にそっと横たえて、私の向かい側に腰かけた。横向きになったハード・ケースの側面に“RICHARD WILDE”という名が、くっきりと金文字で刻印されている。すぐそばでみてみれば、どこかのオーケストラとみえたきらびやかなシールには、“HONG KONG PHILHARMONIC SOCIETY”という花文字とともに、ちいさく“香港管弦協會”という漢字も読める。
 私はゆっくりと彼に訊いた。
「香港のオーケストラのかたですか?」
「ああ、その昔ね。七年間、チェロを弾いていた。今は故郷の大学で教えている」
 テーブルにやってきた店員に、彼は黒ビールを注文した。
スコットランドだよ。その教え子のひとりが、東京にいてね。はるばる呼ばれて、ちいさな演奏会をした。その帰りさ」
 運ばれてきた黒ビールを、彼はうまそうにひと口飲んだ。それから、しばらく私と彼は黙り込んで、酒を飲んでいた。「琴楽」のことは少し気になったが、そもそも私は職業演奏家と話すこと自体がはじめてで、話の切り出し方よくわからなかった。彼はやはりテーブルの上の「琴楽」をじっとみつめて、もの想いながら、黒ビールを飲みつづけている。
 やがて、彼はテーブルの向こうで、ぽつりと呟くようにいった。
「香港の話をしていいかな?」
「どうぞ。ぜひ、聞かせてください」
 私は心の底から喜んで、目を輝かせた。さっきまでの不機嫌は、どこかへ飛び去っていた。
「いろいろなことがあった。そいつを熱心に読んでいたのは、チェロの仲間だった。彼はもうずっと行方知れずだ。でも、話したいのは、そういうことじゃない。……つまり、その、……やつらのこと、なんだ」
「やつら?」
「そう。やつらだ。あんたには悪いけれども、そう呼ぶしかない。名前を呼ぶわけにはいかないんだ。他人に話すことだって、ほんとうはよくない。これまで誰にも話したことはなかった。……こんなことは、まったくはじめてだがね、おれはこの酒場に入ってきて、その懐かしい雑誌をみて、……やつらのことを憶いだした。そうしたら、やつらのことを話したくなったんだよ」


……「輪のなかのとき」より