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旋律的 林巧公式ブログ

旅とおばけと音楽と、小説とごちそうと物語について。

3月11日

h_major2011-04-20

 衝撃は時間の手触りをかえてしまう。二〇一一年の三月十一日、午後二時四十六分が、半年も、一年も、もっとずっと前の、あるいは先の、次元を異にする遠いところであるかのように、今となっては感じられる。

 胸のなかに、手がかりとしてあるのは、もう十六年の昔となる、一九九五年一月十七日の午前五時四十六分だ。東京の荻窪に暮らしていたぼくは、あの阪神淡路大震災のあと、まだ日にちが浅いとき、現地の被災地に入った。
 銃弾や砲弾が落ちていないだけで、あたかも激しい市街戦の後の、戦場のようだった。鉄筋コンクリートの大きなビルも、木造のちいさな家も、高速道路の走行面も、道路を支える柱も、神社の鳥居も常夜灯も、街のすべてが傾き、ゆがみ、つぶれていた。あまりに多くの建造物が傾き、地面との垂直関係を喪失していたため、ただ歩いているだけで平衡感覚が失われる気がした。
 西へ向かって歩いて行くと、芦屋も、三宮も、がれきと混沌に包まれていた。だが、街そのものが消えたわけではなかった。変わり果てた姿ではあったが、その場所がかつて親しんだ芦屋であり、神戸である、ということは、ぼくの目には明らかだった。
 崩れる建物がないために、結果的に空間が残った、あちこちの公園では、炊き出しが行なわれ、砂漠のオアシスのようになっていた。その湯気や煙は、希望を伝える狼煙(のろし)だった。そんな公園の、かわらぬベンチで笑顔で話している、赤ちゃんを抱いた若夫婦や、温かい食べ物を目の前にして、はしゃぐ子供たちは、彼らの姿そのものが未来であり、そこに強く輝かしい光が射しているようにみえた。

 その神戸から平時であれば電車で三十分の、大阪の繁華街は、憎らしいほど、かわりない日常に包まれていた。梅田のコンコースのシャンデリアの輝きも、地下にひろがる三番街のレストランのざわめきも、大阪駅前の横断歩道の雑踏も、わずか三十五キロほど西寄りの街ががれきに埋もれているとは思えぬ安泰ぶりだった。
 その安泰ぶりは、被災地からやってきた者には、ふてぶてしく感じられもしたが、その大阪のかわらぬ日常が、震災のショックを和らげたところもあった。線路伝いに東へ向かい、とにかく大阪へ出れば、そこには一月十七日より前と、何もかわらぬ日常がひろがっている。かわらぬ大阪のネオンサインが輝いている。そのことは、神戸にとって、ひとつの励みであった。

 三月十一日よりこちら、東京の日常性喪失と、右往左往ぶりには唖然とし、情けないばかりだ。その夜、電車が動かず、多くのひとたちが家に帰れなかった。輪番の停電が幾日もつづいた。だが、津波で街や村そのものが壊滅し、一瞬にして集落ごと、学校ごとに、多くの命が喪われた被災地からすれば、そんなことは混乱のうちにも入らない。どうでもいい、煩い出来事だ。

 そして、この東京からですら逃げ出すひとや、やってくることを避けるひとがいる。驚くべきほどの脆さで、東京の日常は崩れかけている。だが、東京はふてぶてしく、かわらないことで、被災のショックを和らげねばならない。南にいけば、かわらぬ東京があることを、脅かされぬ日常があることを、今こそ被災者に示さねばならない。