旋律的 林巧公式ブログ

旅とおばけと音楽と、小説とごちそうと物語について。

ろうそくの炎がささやく言葉

h_major2011-08-09

 大地震が起きる十八日前の夜――パラダイムが転換してしまい、もう何年も前のことのように感じられるが――二月二十一日のこと、読売文学賞の贈賞式と祝賀パーティが帝国ホテルであった。そのさらに一年前(二〇一〇年)の、小雪が舞う春の夕べ、トークイベント(対談)を表参道の青山ブックセンターで開催した管啓次郎氏の「斜線の旅」が随筆・紀行部門で受賞したため、ぼくも招かれて、銀座へ出かけた。
 他の受賞者は小説部門が、桐野夏生「ナニカアル」、評論・伝記が、黒岩比佐子「パンとペン 社会主義者・堺利彦と『売文社』の闘い」、詩歌・俳句が、大木あまり「句集 星涼」、研究・翻訳が、野崎歓「異邦の香り ――ネルヴァル『東方紀行』論」、随筆・紀行ではもうひとり、梨木香歩「渡りの足跡」が受賞した。昨冬、まだ若くして逝去された黒岩氏以外の受賞者はそろって列席していた。

 こうした文学賞のパーティは、通常、まず主催者の挨拶があり、次いで選考委員を代表して誰かが選評を述べ、最後に受賞者がひとりずつ挨拶する、という式次第で行われる。来場者は、主催者側の関係者に、受賞者の家族、友人たちと、仕事をともにしてきた――あるいは、これからともに仕事をしてゆく――編集者や、新聞記者たちだ。たとえば桐野夏生氏なら、直接の担当編集者だけでも、文芸誌、単行本、文庫本と、各社にずらりといるから、それだけでも小集団となる。また他の文学賞に比べ、読売文学賞部門が多いから、関係者の数も多く、数百名を収容できる宴会場でも、かなりの賑わいぶりである。
 壇上に呼ばれた受賞者は、晴れやかな表情ではあるが、和気藹々という感じではない。受賞者同士の歓談の場というものも、このパーティがあるくらいで、他にはないという話だった。せっかくの同期受賞であり、それぞれの分野で評価された同時代の書き手が、つながりを強くすることは、文学の流れによい影響を与えると思うのだが、ことはそう簡単ではない。
 今は、ごく狭いジャンルごとに、作家たちのつきあいはあるものの、かつてそうよばれていた文壇というような広い場はない。その昔、作家たちは、みな顔みしりであり、今、顔みしりでなくとも、いつでも知りあいになれる時代があった。そんな時代は、交際があることによって、よいこともあったろうが、よくないことも多々あったろう。
 お互いをどこか“遠い親戚”のように認めた作家たちは、共鳴や、反論や、議論や、喧嘩を、あたかも“結婚式”や“法事”の席での、高らかな乾杯や、罵りあいのように、飽くことなく、繰りかえしてきた。今は交際が薄れたことによって、馴れあいも減ったが、喧嘩もなくなった。みんな目の前の仕事だけに、ひとり黙々と集中し、ごく内輪の気の合う仲間とだけ、そっと杯を傾ける。他のあらゆる専門分野で起こっていることと、文学の世界で起こっていることは、まったくおなじである。どこか寂しい、と感じるのは、ぼくだけだろうか。

 はじめに読売新聞社の社長の挨拶があり、選考委員を代表して、全体の選評をしたのは津島佑子氏だった。彼女はつかつかと壇上中央に歩み出ると、どこか怒ったような態度で、受賞作についての話をはじめた。その彼女の話しぶりに、ぼくは非常な好感を抱いた。オーケストラの演奏会で、なぜか怒ったような、不機嫌な表情で、つかつかと舞台に入ってくる指揮者がいる。そうした音楽家は、これからはじまる音楽の流れに、すでに身を浸していて、目の前の聴衆に世俗的な対応を取ることができないのだ。
 文学について話をする津島氏には、そうした指揮者に通じる、世俗的な無愛想さがあった。作家はそうあるべきだろう。だが、会場でじっとみあげている、何百人ものひとたちを眼下にして、世俗的な表情を差し挟まず、文学に身を浸した言葉だけを発するのは、誰にでもできることではない。その後の、受賞者ひとりひとりの挨拶は、選考委員とは違って、それぞれ今回、はじめてのことだから、短い挨拶のなかにも、世俗的な実感がこめられた、会場を和ませる言葉がつづいた。

 挨拶が終わると、中央テーブルに山と盛られた御馳走とともに、それぞれの場で歓談のひとときとなる。ぼくは、多摩川の上流へ、何度か一緒にバーベキューへ出かけたことがある、管氏のご家族と再会し、お祝いの言葉を伝えた。また管氏の旧い友人で、ぼくも顔みしりであるラテンアメリカ文学の旦敬介氏や、文化精神医学の宮地尚子氏、管氏の受賞作を刊行した出版社インスクリプトの代表、丸山哲郎氏らとも管氏の受賞をお祝いし、またひさしぶりであれこれと話をしながら、気になる料理をちらちらと眺める。

 卓上には色とりどりのオードヴルにはじまって、数多くの御馳走が並んでいる。だが、こうした立食パーティの席で、あれもこれもと目移りしはじめると、すべてが中途半端になり、結局、何を食べたのだか、後からわからなくなる。だから、いっそ食べない、という考えもあり、事実、そうしていた頃もあった。だが、食いしん坊としては、やはり惜しいし、それでは戦わずして、負けだ。なので、あるときから、ぼくは心のなかで一番の御馳走を最初に決め、他にあれこれと手を出さないことにした。そうすると、何を食べたのか、はっきりとし、料理の味わいも鮮明に残る。
 ぼくの目当ては、何よりも、うまい肉だ。そのまなざしで、会場を一巡すると、どれが一番の肉料理かは、一目瞭然だった。それは、はなやかな中央テーブルではなく、会場後方の壁際にそっと引き出されたワゴンに載せられた、焼きたてのローストビーフの塊であった。ぼくはワゴンに付き添うシェフからビーフを美しく切りわけてもらい、グレービーに浸し、ホースラディッシュを多めに盛って、ひとが集う丸テーブルに戻った。そして、ワインを飲み、話をしながら、ローストを味わった。
 このワゴンにまだ気がついていない若者たちがいる。大人はともかく、若者にとって、それは明白な不幸である、という強い信仰心、というか、義侠心が湧き、知りあいの家族である、顔みしりの高校生、中学生たちに、ほら、あの後ろのワゴンに行って、肉を切って、装ってもらってきてごらん、このパーティで一番うまい肉だから、と耳打ちする。そう聞くと、むろん彼らは目を輝かして、ワゴンに向かってゆく。

 そうやって話をしているうち、誰かに横あいから、名前を呼ばれた。ふり向くと、角川書店の津々見潤子氏だ。あっと驚いて、ふたりで再会を喜ぶ。彼女はぼくが書き下ろした長編小説「ピアノ・レッスン」を担当した文芸編集者である。文壇という広い場はもうない、と書いたが、そうはいっても出版界は、とてもちいさな狭い世界であり、特に示しあわしていなくとも、こうしたパーティの席上で、仕事をともにしてきた仲間と出会うことは、ままある。お互いの近況を話し、彼女の元気そうな顔をみて、ひと安心し、嬉しくなる。

 パーティも半ばに差しかかったころ、人があまりいないところで、帽子を目深にかぶり、ひとりぽつりと佇んでいるひとが目に入った。どこかでみた顔だ。やがて、あっと思った。面識はなかったが、ずっと昔、やりとりがあったひとだった。
 ぼくは彼のもとにゆっくり歩み寄ると、唐さんですね、と訊いた。彼は、ちいさくうなずいた。唐十郎氏であった。唐氏は、この読売文学賞の戯曲・シナリオ部門を、かつて「泥人魚」で受賞している。それで招かれ、やってきたのだろうと察するが、今回は戯曲・シナリオの受賞は、残念なことに、該当作なし、であった。
 ぼくは、自分の名を語り、もうずっと昔、台湾のことで、ご連絡をいただきました、と説明した。九〇年代のはじめ、JICC出版局(現、宝島社)という出版社から“別冊宝島”というムックのシリーズ(現在も出ているが、スタイルが変わってきている)が刊行されていて、ぼくは何人かの書き手とともに「謎の島・台湾」という本をつくった。その本にぼくが寄せた、台北についての原稿を唐氏が面白がっていて、台湾をテーマにした新作戯曲のパンフレットに文章を寄せてほしい、との電話が、唐氏の事務所から、その昔あったのだ。パンフレットへの原稿は締め切り等が合わず、実現しなかったのだが、その後、唐氏は戯曲「ビンローの封印」をもって、台湾公演を果たした。
 台湾と聞いて、唐氏はすっと表情を和らげ、懐かしそうになった。あの頃から台湾も大きく変貌した。ぼくは唐氏と、九〇年代の懐かしい台湾について、少し話をした。そうした“遠縁の”懐かしいひとと、思いもかけず、こうやって会って話ができるのも、パーティの愉しさだ。

 やがて、帝国ホテルのパーティがお開きになると、管啓次郎氏を囲む面々は、受賞した本のデザイナーの御用達だという神楽坂の山形料理のうまい店へと繰り出した。そこで、夜が更けるまで、杯を交わし、あれこれと語りあった。――その十八日後の午後二時四十六分、大地震が起きた。

 そのことで、事態は誰も想像しなかった展開を示すことになった。この夜の、フランス語に縁が深い、受賞者ふたり、管氏と野崎歓氏が編者となり、東北の大震災を目の当たりにして、一冊の本が編まれることになったのだ。「ろうそくの炎がささやく言葉」という名の、詩人と作家が、それぞれの胸の内の言葉を捧げる、朗読のためのアンソロジーだ。ぼくも掌編小説を寄稿し、勁草書房から八月八日に刊行された。書き手は三十一名にのぼり、そのうち、何人かの寄稿者とともに、ぼくも参加して――こうして、ときは永遠回帰ミルチャ・エリアーデ)するのか――表参道の青山ブックセンター本店で、八月二十一日の夕べ、朗読会を行います。