旋律的 林巧公式ブログ

旅とおばけと音楽と、小説とごちそうと物語について。

252階のチャンドラと173階のミミ

h_major2011-12-30

 煩く電話が鳴っている。
 チャンドラはベッドサイドの起床スイッチを押した。部屋のなかに薄ぼんやりと明かりが点り、壁のスクリーンが開いて、ちいさな手鏡ほどの大きさの丸い窓があらわれた。チャンドラは寝ぼけ眼を擦りながら、二百五十二階の窓の外の光景を眺めやった。
 夜明けの日の光を受けて、無数の耐風ガラスがきらめいている。いつもながら、増殖したミニチュアの月のようだ、とチャンドラは思う。……そうであるならば、おれたちひとりひとりは、それぞれの月面にただひとり降りたった孤独な宇宙飛行士だ。あまりにちいさく、プライヴェイトで、ささやかな月ではあるけれど。
 それらの窓の向こう側には、この部屋とおなじ、たったひとつの部屋からなる、一軒の住居がある。なるほど、大仰な景観ではある。左右の親指と中指で囲めるほどの丸窓からみえる、ごく狭く切り取られた視界のなかにすら、いったいどれだけの数の住民の暮らしがあるのか、チャンドラには見当もつかない。しかも、すべての部屋は、ひとつながりの巨大な建物のなかにあった。
 三百階もの階層、その最上層と最下層のそれぞれ三十階層を占めるロスト・レベルスのことは、ただ恐ろしい階層だという噂しか知らない。チャンドラが知っているのは、二百一階から二百七十階までのアウター・レベルスだけだ。チャンドラが行き来できるのは、その七十階だけである。“生きわかれの双子”階層と呼ばれている三十一階から百階までは、高速エレベータ内の階数表示ランプの瞬きから、おなじ階層として結ばれていることがわかるだけだ。そこでは、高速エレベータは決して停まらない。
 他の階層とは、そもそも高速エレベータすら結ばれていない。だから、階数を示すランプすらない。アウター・レベルスの内側、百六十一階から二百階、百一階から百四十階までのミッド・レベルスのことは、チャンドラはおなじ建物のなかにあることを知っているだけだ。さらに、百四十一階から百六十階までの中央階層、ピークからはすべての階層に隠された高速エレベータがつながっている、という噂がかつてあった。だから、ピークの住民たちは、屋上の眺めも地上の風景も知っている、と。
 だが、それはやはり噂に過ぎず、反対にピークは他の階層と最も厳重に遮断されている、というのが、このところのアウター・レベルスの居住者たちの共通理解だ。
 そもそもチャンドラは地上を知らない。地上の存在は、……そして地上での暮らしは、もはや神話のなかにしかない。地上は、この三百階の建物を支えている場所をあらわす抽象的な概念として、それがなければ世界が成立しないひとつのものとして、たとえば〈酸素〉や〈心臓〉のように、頭のなかで理解できるだけだ。二百五十二階の窓から地上ははっきりとみえない。下界をみおろしてみても、薄く靄がかかった遥かな彼方としてみえるだけで、空の果てをみあげることとかわりがない。


 電話が鳴りつづけている。
 チャンドラは窓の外を眺めながら、かつての仕事仲間で、二百六十七階に住んでいた秋輝(しゅうき)の顔を憶いだしていた。こんなふうに朝早く、やつはよく電話をよこしてきた。あいつは寂しがり屋だった。誰もがたったひとつの巣穴のような部屋で、孤独をかみ砕きながら過ごしているというのに、秋輝は朝から寂しさを隠そうともしなかった。だから、チャンドラは秋輝の態度にある種の危うさを感じていた。
 七十八番目の颱風がやってきた朝、やはり電話をかけてきた秋輝の声は、それまでに聞いたことがないほど弾んでいた。
〈チャンドラ。今日は暇かい?〉
「ああ」
〈午過ぎに……〉
 一瞬、嫌な沈黙があった。
〈地上で待ち合わせよう〉
「なんだと?」
〈地上だよ〉
 チャンドラの背筋が冷たくなった。
「おい……」
〈懐かしいんだ。地上に帰りたくなった。おまえはどうせ高速エレベータだろ? 階段で先に降りて待ってるよ〉
「階段だと! ……秋輝!」
〈たった七階くらい階段で降りるさ。じゃあな〉
 忘れもしない。秋輝が自分の居場所をみうしなった日の、悲しい記憶だ。自分の居住階層を客観的に認識できなくなる幻覚は、かつてはロスト・レベルスの風土病と噂されていた。だが、このところ、アウター・レベルスでも患者が次々と発生している。
 あの朝、秋輝は自分の住居が七階にあるという幻覚にとり憑かれた。彼は高速エレベータへの乗降を拒絶し、階段しか使おうとしなくなった。しばらくして、秋輝は療養所への強制転居を余儀なくされた、とチャンドラは聞いた。療養所がどこにあるのか、チャンドラは知らない。アウター・レベルスにはない。そして、療養所に送られた後、もとの部屋に帰ってきた居住者の話も聞いたことがない。
 ふいにアウター・レベルスから姿を消した、まだ若かった秋輝のやるせない面影を思い浮かべながら、チャンドラは思った。地上を眺めながらひとが暮らせた時代は、もはや遠い追憶のなかに、……神話のなかにしかない。地上七階の部屋に焦がれる気持ちはチャンドラにもわからなくもない。だが、地上に階段で降りられる部屋など、夢のまた夢だ。やつは間違ったやり方で、追憶をしてしまったのだ、と。
 確かに、こうして無数の窓を眺めていると、自分の居場所がわからなくなるときが、チャンドラにもある。窓の光が重なりあい、反射しあっているように、近い記憶と遠い記憶が、甘い追憶と苦い追憶が混じりあう。居住者の数知れぬ追憶は、耐風ガラスの輝きと一体化し、夜毎、きらめいてみえる。だが、追憶にも領分がある、とチャンドラは思う。ピークを中心にして、ミッド・レベルス、アウター・レベルス、ロスト・レベルスと、四つにわかれた階層が、それぞれ隔てられた追憶のかたまりであるかのように感じられる瞬間があった。


 ただでさえ、毎朝毎夜、無数のミニチュアの月を眺めて、ひとはなかなか正気でいられるものではない。だが、幻覚の発症のトリガーとなるものは、必ずしも居住フロアの地上からの距離だけではなかった。
 もうひとつの要因は颱風である。これも地上の存在とともに永く語り継がれてきた、ひとつの神話だ。……地上は颱風が吹き荒れる海沿いにある。その海辺には裸螺(らら)と呼ばれる巻き貝が満ちていた。裸螺はひゅうひゅうと鳴きながら、波打ち際を這い回り、浜辺は巻き貝捕りの孤児たちで溢れていた。三百階の階層からなる建物は、なかでも颱風の被害が最も酷かった浜辺に、永い歳月をかけて築かれていった。
 そのための耐風ガラスでもある。
 颱風の日には、窓からの風景が一変する。地上も空も白く濁り、掻き回され、窓に張りついたようになる。地獄とはこのことだ、とチャンドラですら感じたことがある。どんよりとした白い空のただなかにあって、増殖した月は妖しい輝きを帯びはじめる。もとより窓は開閉できない。耐風ガラスは一定の防音効果を備えてはいる。だが、それでも強い颱風の不気味な風のうなりを完全に遮断することはできない。
 颱風が通り過ぎてゆくのをじっとみつめるなど、狂気の沙汰だ。そのことを知っている模範的な居住者は颱風がやってきても決して向き合わず、話題にすらしない。一日中、スクリーンを引いて、窓の外で吹き荒れている颱風に気づかぬふりをする。気楽な階層放送を大音量で流しつづけて、風のうなりもできる限り消してしまう。そうすれば、気がついたときには、輝かしい晴天が窓の外にひろがっている。
 だが、悪魔に魅入られたように、恐ろしい颱風にすり寄ってゆく居住者がたまにいる。彼らはひとときも窓際から離れず、颱風がもたらす凄まじい空模様の変化と、激しい風のうなりを一身で感じつづける。
 そうした経験を繰りかえすと、颱風はたちの悪い薬物とおなじ効果をもたらす。彼らはちょうど薬物依存症の患者のように、颱風の到来を待ち望むようになる。やがて、幻覚が引き起こされる。彼らの耳は聞こえないはずのものを聞き、目はみえないはずのものをみはじめる。
 耐風ガラスにぴたりと張りついて人間のように笑っている黄色い山羊をみた……、窓の外を舟歌とともに飛ぶ巨大な船をみた……、と真顔で話していたアウター・レベルスの居住者を、チャンドラは知っている。
 彼らの多くは颱風が去ったと気がついたとき、自分の居場所をみうしなっている。その部屋が何階にあるのか、正しく答えられなくなっている。そして、心のうちでは、もう次の颱風の到来を待ち望んでいる。


 電話が鳴りつづけている。
 チャンドラはようやくベッドサイドの通話スイッチをオンにした。
〈おはよう〉
 壁面に埋め込まれたスピーカーから、若い女の声が響いてきた。ミミだった。チャンドラは映像メディアには完全に背を向けた暮らしを送っている。それが、もし“絵”といえるのならば、部屋のなかで“絵”の映るものは、ちいさな窓だけだった。
「ああ。おはよう」
 ミミは姿をみたことのないチャンドラの恋人だ。
「まだべッドのなかだよ。今、起きたところだ」
〈あたしもよ。いい天気になりそうね〉
 チャンドラは、ミミの部屋の窓からみえる風景を想像した。ふたりは、天気や颱風の到来については、よく話題にした。だが、互いの窓からの風景については、口にはしない。ただ遠く想いを巡らせるだけだ。それは、もちろん階層を越えた違法な通話と悟られないための、ふたりの配慮でもある。だが、窓辺の風景を語りあったところで、ふたりの距離が近づくわけではない、という思いもある。
「花は咲いたかい?」
〈ええ。今にも咲きそうなんだけど……〉
「そうか。楽しみだよ」
 花は、ふたりが知りあった日に、ミミが買ったものだ。
「早いものだな」
〈そうね。もう一年と四か月よ。私たちが知り合って〉
 きっかけは混信だった。チャンドラが部屋のなかに映像メディアをまったく取り込んでいなかったために、受信プログラムに何らかの不具合が発生し、本来、結ばれるはずのない回線が結ばれたのだった。


 聞きなれぬ若い女の声を耳にして、チャンドラはただの間違い電話かと思った。回線が結ばれた五秒後に、女はいった。
〈顔がみえないわ〉
「誰だ?」
 チャンドラは誰何(すいか)した。
「おれは映像が嫌いでね。切ってある」
〈パパじゃないの?〉
「パパ?」
 チャンドラは笑って、回線を切ろうとした。
〈待って。切らないで〉
 女が驚いた声で叫んだ。
〈嘘! この電話、壊れたのかしら〉
「おれは、くだらないかけ間違いに……」
〈そこ、二百五十二階なの?〉
 チャンドラはため息をつきながら、電話回線の相手先フロアの表示をみた。光パネルに《173》という数字が点滅している。……百七十三階?
 チャンドラはじっとその数字をみつめ、女とおなじことを思った。この電話は壊れちまったのか、と。
〈ねえ、アウター・レベルスなの?〉
 女の声は明晰だった。チャンドラは相手が正気だと悟った。
「ああ。そっちは……?」
〈ミッド・レベルスよ。百七十三階〉
 電話は壊れてはいなかった。階層を越えた混信だった。
 奇跡が起きた、とふたりは感じた。そして、すぐに混信状態を固定化し、混信データを保存するためのプログラム上の措置を取った。その日のうちに、チャンドラはそれが階層を越えていないと偽装するためのプログラムをつくりあげた。

 そうやって、ふたりは恋人となった。
 確率の得難さからすれば、神に選ばれたも同然のふたりだった。ミミの甘い声を耳にして、しかも彼女がミッド・レベルスの住民だということを知って、チャンドラは激しい恋心を抱いた。ミミにとっても、チャンドラの乾いた声を聞き、しかも彼がアウター・レベルスに暮らす男だということを知って、囁くような甘い声は切なくなってゆくばかりだった。混信の固定化と偽装は、映像メディアの取り込み可能性を完全に放棄することで成立した。会えないことはわかっている。お互いの顔をみることすらも、あらかじめ諦めて、はじめて手に入れた恋であった。
〈もうすぐよ〉
 ミミが囁くようにいった。
〈このちいさな十センチの花が、私たちの出合いを祝福してくれるわ〉
 チャンドラはみることができない、ちいさな蕾を想った。
〈花が咲いたら会いたいわ〉
「そうだな。ミミ」
 おなじ階層間での会話と偽装するため、ふたりは敢えて次のデートを待ち焦がれる恋人同士のように喋ってみる。階層を越えた行き来が認められるのは、居住区での生活を維持できない病気に罹ったか、さもなければ死んだときだけだ。おなじ階層のなかに居住者の霊園を備えているのはピークだけだった。他の階層に暮らす居住者の遺体はロスト・レベルスに葬られた。だから、ふたりが会えるとしても、それは死んだときだった。


……「百七十三階のラフレシアが咲いた」より