旋律的 林巧公式ブログ

旅とおばけと音楽と、小説とごちそうと物語について。

ドルチェとピッカンテ

 教会の鐘が毎朝六時に、六つ、鳴リ響く。それが夜明けの最初の鐘の音だ。その深い響きわたる音で、心地よく目覚める。夜のうちに雨が降ったようで、窓を開けると石畳が、しっとりと濡れている。石畳の道には、実にさまざまな表情がある。雨に濡れた石畳は、色合いが濃くなり、質感もかわり、美しい。
 色だけではない。さまざまな響きがある。靴底や、ヒールのカツカツという響き。ドゥオーモ広場を走る観光馬車の馬は、その蹄鉄をリズムよく、石畳に打ちつけ、パカッパカッと響かせる。馬車に乗らなくても、蹄鉄のリズムを聴いているだけで心地よい。脚の数が違うのだから、当然といえば当然だが、人間と馬では、おのずから歩行と駆け足のリズムが異なることが、靴と蹄鉄、それそれが打ち付ける、石畳の響きを聴いているだけでわかる。
 そして、朝六時から七時にかけて、フィレンツェの街は少しずつ目覚めてゆく。老舗の商店では、店頭の掃除や、ウィンドウの整えが始まり、やがて、石畳を掃除する清掃車や、ゴミを収集する車が行き交う。通りを足早に歩く人たちが少しずつ増え、街はいつもの活気を取り戻す。


 今日は、ゴルゴンゾーラ(Gorgonzola/青かびチーズ)のドルチェ(dolce/穏やかな味)とピッカンテ(piccante/辛い味)の食べくらべ。ドルチェという言葉は、それ自体、味わい深い。レストラン、そして甘いものが好きな人たちには、ドルチェは食後の“甘い”デザートのことだろう。音楽の表情記号でも、たとえばソナタ形式の第二楽章などに、よく使われる。優しく、穏やかに、弾きなさい、と、音楽の先生に教わる。(人の性格が)柔和である、(木の材質が)柔らかい、(気候が)温暖である、という意味でも使われる。ピッカンテの“辛い”という意味合いにも相当な幅があり、唐辛子の“辛さ”にも使われるが、赤唐辛子とゴルゴンゾーラの“辛さ”の意味は、もちろん同じではない。チョコラート (chocolato/チョコレート)とゴルゴンゾーラの“甘さ”の意味が、異なることと同様だ。
 だが、ゴルゴンゾーラは伝統的にドルチェとピッカンテが、歴然と区別され、つくられてきた。だから、おなじ青かびチーズでも、この二種はメルカートではどこでも区別して売られている。見た目で青っぽいのが、ピッカンテで、白っぽいのがドルチェである。食べてみると、青かびチーズ特有の味わいの強さに、確かに格段の差があるのだが、一方で、チーズそのものの質感、柔らかさも違う。いうなれば、別のチーズなのだ。ドルチェは、チーズ全体が柔らかく、優しい。で、塩なしパンにつけて、どちらが旨いかというと、これはもう完全に甲乙つけがたい。端的にいえば、どちらも旨い。別のチーズの味わいとして楽しめる。キャンティ(chiantiトスカーナ州キャンティ地方特産の赤ワイン)のつまみとして、少しずつ、嘗めるにしても、甲乙つけがたい。ピザやパスタのクアトロ・フォルマッジ (quattro formaggi /4種のチーズのソース) に使うなら、やはりピッカンテだろうと思うが、いやいやドルチェの味わいもひとしおかもと思い直す。


 午後は、シニョリーア広場を南下し、ウッフィツィ美術館へ。ファザードの前では白亜の石像になったり、ツタンカーメンに化身した大道芸人が、子供たちや通りすがりのひとたちの注目を集めている。
 ぼくにとっては、ウッフィツィ美術館は何よりもジョットと再会する場所だ。彼の工房がたくさんの教会の為に製作した、それぞれの聖母像の前で、あらためてジョット自身の巨きな世界と、その前にあった世界、その後につづいた世界を想う。
 大天使が、どの“受胎告知”の大天使よりも、知的にみえるレオナルド・ダ・ヴィンチの「受胎告知」、また、それぞれ別の絵としてみていたボッティチェリの「プリマヴェーラ」と「ヴィーナスの誕生」が、ひとつながりの絵(動き)としてみえ、いろいろなことを想う。
 絵はたった一枚の、そこに描かれただけの世界だが、そこから絵の向こう側へ、そして未来と過去へ、描かれたものの動きがつながっていないと面白くない。ジョットが面白いのは、そのつながりを感じさせるからだ。