旋律的 林巧公式ブログ

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アルノ川と恋人たち

 ポンテ・ヴェッキオ(Ponte Vecchio / 古い橋 ) は、いろいろな意味で、フィレンツェを象徴する橋だ。ジォットの一派によって設計されて、アルノ川に架けられたのは、1345年のこと。その名のとおり、とても古い。
 橋のうえでは、もとは肉屋や鍛冶屋がちいさな作業場を構え、職人仕事をしながら、その過程で出る廃棄物をアルノ川に落とし、流していたようだ。16世紀末にトスカーナ大公トスカーナ大公国の元首。フェレンツェを首都とするトスカーナ大公国が、現在のイタリア、トスカーナ州の源となった)に就いた、メディチ家のフェルディナンド1世は、そうした橋上の作業場を立ち退かせ、かわって金を扱う細工師たちに橋上での正式な営業許可を与えた。そうした経緯から、現在も貴金属のアクセサリーを売るちいさな店が、橋のうえに多く軒を構えている。
 橋のうえに店を構えて商売をする、というのは、今でこそ、みかけなくなったが、歴史的には世界中でごくありふれた風景だった。誰もが通らねばならない橋は、物を売るには、もってこいの場所だったのだ。日本も例外ではなく、岩手県釜石市には、橋のうえを市場の長細い建物が覆っていて、橋を渡りながら買い物ができる、橋上市場(きょうじょういちば)があった。
 その橋のうえの市場の組合事務所で、ぼくは立派な額に飾られたポンテ・ヴェッキオの写真を、生まれて初めてみたのだった。橋のうえの市場として、また橋の長さも約100メートルとほぼおなじで、釜石の市場のひとたちは、このフィレンツェのポンテ・ヴェッキオを、特別な仲間として、遠くから眺めていた。かつて、ぼくはその思いを、ポンテ・ヴェッキオの店に伝えたことがある。そのエピソードは「フォレンツェ・ヴェッキオ橋の写真」として、エッセイに書いた(「チャイナタウン発楽園行き講談社文庫、2000年、収録)。


 さて、第二次世界大戦枢軸国側で、イタリアは最も早く降伏した国だが、実際はドイツ降伏の直前まで、戦闘はつづいている。1943年の夏に連合国軍シチリア島に上陸し、イタリア半島北上をうかがうと、ファシスト党ムッソリーニはイタリア国王に解任され、軍人出身のピエトロ・パドリオが担った新政府は、連合国側に密かに無条件降伏を申し出る。
 このイタリアの動きを予期していたヒトラーは、イタリアとオーストリア国境のアルプス山脈の峠にドイツ軍を集結させており、降伏の動きが表沙汰になると、ただちにドイツ軍を南下させ、イタリア全土を実質的に占領した。そうして幾重もの軍事的な防衛ラインをイタリア半島に敷いて、北上する連合国軍と戦闘した。フィレンツェ連合国軍に陥落したのは、翌44年8月のこと。古都の多くは戦火を逃れたが、アルノ川に架かる橋は、ポンテ・ヴェッキオを除いて、すべてドイツ軍に破壊された。
 橋を破壊したのは、連合国軍の追撃を遅らせるためだった。ドイツ軍がポンテ・ヴェッキオをひとつ、川に残した理由は、歴史ある文化財への敬意と考えるのが妥当だろう。だが、ほんとうのところはわからない。いずれにせよ、跡形もなく、破壊されたかもしれない運命から、ポンテ・ヴェッキオは、からくも逃れた。


 ポンテ・ヴェッキオの北には、フィレンツェにやってきた誰もが訪れるウッフィツィ美術館があり、南にはラファエロティツィアーノの絵画で知られるパラティーナ美術館を擁するピッティ宮がある。だから、橋は、国際観光地のメインストリートとして、銀座の大通りのような熱気と人込みで溢れている。
 人込みに紛れて橋を渡ってゆくと、欄干からアルノ川を見渡せるテラスがあり、そこに大きな胸像が置かれている。胸像はフィレンツェ生まれの彫金師、ベンヴェヌート・チェリーニだ。ミケランジェロと親交をもち、彫金のみならず、彫刻、絵画にも才能があり、ルネサンスの一時代を画した芸術家だが、一方で、とんでもない無頼で、フィレンツェ、パリの王宮を世俗的に渡り歩き、女性関係、男性関係ともに凄まじく、ときに幽閉され、斬った斬られたの大立ち回りを演じ、遂には報復やら、喧嘩やらで、人を殺して高跳びし……と、波瀾の人生を送り、それをそのまま独特の口述文体で自叙伝として書き残している。
 公に刊行されたのは、16世紀を生きたチェリーニが58歳で書いて170年の後、18世紀に入ってからだが、芸術家の赤裸々な自叙伝としては嚆矢であった。感銘を受けたゲーテはドイツ語に訳した。フランスの作曲家、ベルリオーズは、この自叙伝を、そのまま題材としたオペラ「ベンヴェヌート・チェリーニ」を作曲している。
 アルトゥール・ルービンシュタインという19世紀末生まれのピアニストの自叙伝を読んでいて、ひとりの女をめぐる、双方ピストルを手にした決闘の場面が出てきて、あっと驚いたことがある。ピアニストだって、女の奪い合いで決闘もするだろう。だが、こうした自叙伝は、文芸として、ベンヴェヌート・チェリーニがつくりだしたもののうえにある。


 そのチェリーニの胸像を囲う枠で、奇妙なことが起きている。金色の錠前が数しれず、取りつけられているのだ。その南京錠をよくみると、ふたつの名前、あるいはイニシャル、ニックネームが、油性ペンではっきり書きこまれている。
 どういうことかというと、ここにやってきた恋人たちが錠前を買って、ふたりの名前を書き込み、このチェリーニの胸像を囲う枠に取り付ける。そして、その鍵をふたりで、アルノ川に投げ落とす。そうやって永遠の愛を誓うのだ。イタリアの恋人たちの間で、フィレンツェのみならず、イタリア各地にひろがっている習俗で、業を煮やした当局は、条例で禁止し、高額の罰金を課している。だが、完全に止む気配はないようだ。
 その発祥の地のひとつが、このポンテ・ヴェッキオのアルノ川を望む、胸像の枠らしい。永遠と一瞬は、実は似ている、と前に書いた。錠前を閉めても、それを開ける鍵を川に沈めても、そのことが永遠の証明にならないことを、大人は知っている。だが、恋人たちがふたりで錠前をかちりと閉めるとき、欄干から鍵を手放すとき、その一瞬は、ふたりの永遠とつながっている。その一瞬を裏返して、そっと触ってみれば、永遠とおなじ手触りがすることだろう。


 ポンテ・ヴェッキオの、この胸像の下の川底には、もう二度と使われることのない鍵が、どれだけ沈んでいるのだろうか、と想う。夥しい数の開けられない錠前と、川底の鍵を、その一瞬に仮託された永遠を引き受けることは、多少は気が重く、鬱陶しいことだ、と想像はつく。だが、他ならぬ、ベンヴェヌート・チェリーニには、似つかわしくもある。だいいち、断る理由も、権利もない。イタリアの恋人たちは、そうしたことを、敏感に感じ取っているのかもしれない。