旋律的 林巧公式ブログ

旅とおばけと音楽と、小説とごちそうと物語について。

マレー半島のハイウェイで

 クアラルンプール国際空港からマラッカへと向かうハイウェイをメルセデスで飛ばしながら、ミニバスであくせくと移動していた、90年代のクアラルンプールをふと憶いかえす。このメルセデスは申し分なく快適で、それに比べて、あのころのミニバスは暑苦しく、満員でぎゅうぎゅう詰めのときもあったが、マレーシアのひとたちは皆、いつだって心優しく、穏やかだった。
 それは今も変わらない。しかし、国際空港待機のハイヤーであるメルセデスの運転手が、心優しく、穏やかなのは、当然だ。込み合っているミニバスや、乗り合いタクシーのマレーシア人が、運転手も、乗客も、心穏やかに、あれこれと親切に世話を焼いてくれ、一瞬のまなざしや、身振りだけで多くのコミュニケーションが図れるところに、マレーシアの真骨頂がある。
 メルセデスは追い越し車線に出て、高速道路を並行して走るマレーシアの国産車プロトン・サガ(Proton Saga)を、ぐんぐん追い抜いてゆく。懐かしい思いで、ぼくはプロトン・サガを眺めた。1980年代にマハティール首相が政策的に打ち出した国民車構想のもと、三菱自動車のランサーを基礎にして作られた、マレーシア初の国産車プロトン・サガだ。
 そのころから車体デザインは少し変わったが、車名ロゴは変わっていない。それぞれの車にマレーシア人の家族連れが和やかに乗っている風景は、みているだけで楽しい。マレーシアの道には、やはりマレーシアの車が似合う。


 マラッカはあれから、どうなったのだろうか、と、ぼくはプロトン・サガを眺めながら想う。90年代から2000年代半ばまでのマラッカと、今のマラッカは、劇的に変化していることを、旅の準備の過程で、ぼくは察知していた。
 あのころと今とでは、マラッカのホテルの数がまったく違う。ホテルのグレードも違ってきている。マラッカ川のリバークルーズが外国人旅行者に人気だと知り、ぼくは一瞬、信じられない思いに囚われた。


 戦後に独立を果たしたマラヤ連邦にずっと先立つ、15世紀にマラッカ王国は生まれている。王国の二代目の王イスカンダールは、マレー半島の北につながるシャム(タイ)の南下攻勢を牽制するため、さらに北の強国、中国大陸の明朝から、大勢の高官や従者に伴われてやってきた高貴な中国の娘と結婚した。
 そのことに起源をもつ、非常に古い中国文化を伝える家が、マラッカには今も残っている。中国大陸を除けば、最大規模の古い中国人陵墓の丘といわれる“ブキ・チナ(Bukit Cina ) ”(マレーシア語でBukitは「丘」、Cinaは「中国」で、すなわち「中国の丘」)も残る。


 マラッカで、ぼくは朝早く、涼しいときに、ブキ・チナをひとり散歩することが好きだった。
 そうした遺跡と、古い街並みがひっそりと残る歴史の街ではあったが、中級のホテルが二つ、三つ、ほんの数えるほどあるだけで、ラグジュアリー・クラスの高級ホテルなどひとつもなかった。マラッカ海峡へと流れ出すマラッカ川も、世の中から見捨てられたように静かに淀んだ川であり、船に乗って漕ぎ出すなど、誰も想像もできない川だった。
 それが、どうやら一変したのは、2008年にマラッカがジョージタウンペナン島)とともに、“マラッカ海峡の歴史的都市群”として、ユネスコ世界遺産に登録されてからである。