旋律的 林巧公式ブログ

旅とおばけと音楽と、小説とごちそうと物語について。

クライスト・チャーチ、マラッカ

 マラッカには、歩いてわずか数分のところに、歴史的な教会が、壁だけが残された廃墟を含めて、三つある。ポルトガル人、そしてフランス人がかかわったカトリックの教会と、もうひとつは新教徒のオランダ人が建てた教会である。
 この新教徒のクライスト・チャーチ前の広場が、マラッカ旧市街地の中心で、土産物屋の屋台が並び、街を流すトライショーが停まっている。オランダ広場と呼ばれる、この教会前のさほど広くもない場所へやってくると、マラッカへ還ってきた、という気持ちになる。
 客待ち顔のトライショーの運転手の顔を、一人ずつ、ぼくはみてまわる。やはり彼はもういない。初めてマラッカへ来たとき、この広場で知り合い、マラッカのことをいろいろと教えてくれた、心に残るトライショーの運転手がいた。彼は、ぼくよりずっと年上だったが、人懐こく、広場にいるときは、運転手仲間か、あるいは通りすがりの顔見知りか、ずっと誰かとお喋りに明け暮れていた。ぼく自身が顔見知りになると、何を訊いても、たちどころに教えてくれた。ぼくが日本人だとわかると、「オガタケン(緒形拳)という俳優が日本からやって来て、オガタの運転手をやった。ずっと“コニシキ(小錦)”と呼ばれてた」といった。
 おそらく映画「女衒 ZEGEN」(1987年公開、今村昌平監督)の撮影ロケでのことだろう。運転手は、お相撲さんの小錦のような巨漢ではなかったが、マレーシア人にしては恰幅がよく、親しみを込めて、そんなあだ名で呼びたくなる気持ちは、ぼくにもわかった。
 オランダ広場に屯(たむろ)する運転手は、もう完全に世代交代をしていて、その彼からすれば、息子のような若者ばかりだった。あのころは、トライショーはもっと無骨に乗り物らしかったが、いつしかディズニーランドの馬車のように色とりどりの花だらけになっている。


 マラッカ王国に初めてやってきたヨーロッパの船はポルトガル船だった。ポルトガル人たちがマラッカにカトリックを伝え、この地はポルトガルの勢力下となる。やがて、アムステルダムに世界で最初の株式会社となる東インド会社を設立したオランダ人がやってきて、ポルトガル軍の攻略に成功し、ここはオランダの植民地となる。そうなって後、1753年、新教徒のクライスト・チャーチが建てられ、ここはオランダ広場となった。それから、長い歳月が流れたが、教会はかわらずにあり、広場もかわらずにある。


 教会に入ると、ひんやりと心地よい空気に包まれる。図像ではなく、十字架だけを高く掲げた新教徒の教会だが、祭壇には“最後の晩餐”の絵が置かれている。教会入り口脇の机には、ちょっとした記念品が並べられていて、ぼくは懐かしく眺めみる。かつてここで買った白いコーヒーカップ、“If anyone is thirsty, let him come to me and drink. (だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい)”というヨハネ福音書(7章37節)の言葉が刻まれたカップを、ぼくはずっと東京の机のうえで愛用している。そのおなじカップはもうなかったが、その教会の机がかわらずあることで、1990年代と2010年代を隔てる20年以上の時の流れが、アムステルダムとマラッカと東京を隔てる遥かな空間が、胸の奥で一気につながる思いがする。
 ぼくは初めてヨーロッパへ出かけたのが、オランダで、それがヨーロッパのみならず、初めての海外への旅でもあった。だから、アムステルダムには特別な思いがある。アムステルダムに、貿易のみならず、軍隊の交戦権や、外交権をもつ、東インド会社の本社が置かれたということは、歴史の教科書のなかだけの物語ではなく、どこか他人事ではない気がするのだ。


 クライスト・チャーチには、静かに祈りを捧げる、何人かのマレーシア人たちがいた。ぼくはそこでひとときを過ごし、やがてトライショーが列をつくっている表へと出た。教会と広場は、マラッカ川にかかる橋のすぐそば、小高い丘のふもとにある。涼しい空気から、熱帯の暑さと湿気のなかに戻って、ぼくは汗を拭きながら、教会の横手の丘をみあげた。丘に登れば、マラッカ海峡を眺められる。その丘の見晴らしのよい場所に、ポルトガル人が建てた教会の廃墟が残っている。