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旋律的 林巧公式ブログ

旅とおばけと音楽と、小説とごちそうと物語について。

丘の聖母教会

 丘をゆっくり登ってゆくと、巨大な葉を美しく開いた、“扇芭蕉(おうぎばしょう)”の木がみえた。英語名では“旅人の木”(traveller's tree)、または“旅人椰子”(traveller's palm)と呼ばれる。ぼくがマレーシアで大好きな椰子の木のひとつだ。“旅人”というネーミングの由来は、背が高く、ユニークな葉の開き方から、遠方より旅人の道しるべとなるから、あるいは太く長い葉の根本に蓄えられた水分で旅人が喉の乾きを潤せるから、ともいわれる。
 樹高は10メートルほどにも達し、わずか二、三十本の葉が大きく、まさしく扇のように開いているだけだから、ひとつの葉の巨きさもただごとではない。たった一枚の葉に人間の姿が丸ごと隠れてしまい、一本の木が広げる葉で建物の屋根を覆い尽くしてしまう。ぼくは幼いころから、巨きな葉っぱを持つ、芭蕉や、椰子の木が好きで、そうした木への憧れがこうじて熱帯を旅するようになった気がする。だから、巨大な“扇芭蕉”に包み込まれるように、その葉の戦ぎを身に感じながら、丘を登るということは、南の旅の最も幸せなひとときだ。
 その“扇芭蕉”の向こうには、オランダ東インド会社時代の建物の赤い瓦が連なり、さらに一軒向こうには、クライスト・チャーチの屋根のうえの鐘と風見鶏がみえている。ぼくは丘の上へとつづく道沿いで立ち止まり、幼いころ、そうしていたように、ひととき椰子の木を身近に眺める幸せに浴し、マラッカに初めて建てられたプロテスタントのクライスト・チャーチの鐘と風見鶏を、丘の途上から望む巡り合わせを喜んだ。


 丘のうえには、ポルトガル人が建てた“丘の聖母教会”(Igleja de Nossa Senhora de Monte)の、天井が崩れ落ちた廃墟が残されている。カトリック教徒が丘のうえに教会を建てるということは世界中で行われたから、ポルトガル語でおなじ名をもつ教会は世界各地に遍くあり、マラッカの教会もそのひとつに過ぎない。
 一方で、マラッカの丘はここにしかない。この丘が西洋と東洋を隔てるマラッカ海峡に臨んでいるということからも、この丘のうえの教会を通り抜けることで、聖フランシスコ・ザビエルが日本へやってきた、ということからしても、日本人にとっては、特別な“丘の聖母教会”だ。
 ぼくは丘の聖母教会の、今はファサードの壁だけが残り、かつては聖なる図像が描かれたステンドグラスがはめ込まれていたであろう、頭上の空間から、遥かな青い空をみあげた。そして、かつては荘重なドアがはめ込まれていたであろう、正面玄関のぽっかりと空いた空間に佇んで、マラッカ海峡をみおろした。どこから眺めるよりも、この丘の聖母教会の玄関からがマラッカの海を心地よく眺められる。鉛色の暖かな海は、日の光を静かに照り返している。


 すでにリスボンからインド西岸に位置するゴアまでの航路を開拓していたポルトガルが、マラッカ王国を攻略して、この地を占領したのは、1511年のことだ。そして、1521年、ここに丘の聖母教会が建設された。そうやって、ポルトガル国王とカトリックの息がかかることになったものの、ここより東のアジア諸国はキリスト教にとって未踏の地であった。イエズス会聖フランシスコ・ザビエルは、ゴアを経由して、この丘の聖母教会にやってきた。そして、マラッカとゴアを行き来しながら、さらなる東方への布教をうかがう。
 ザビエルはゴアでも旺盛に布教をしている。だが、キリストの十二使徒のひとり、聖トマスがインドにやってきて布教したという伝説がインドにはあり、実際にポルトガルがやって来る以前の、古い時代のキリスト教徒がインドにはいる。だから、聖トマスはとりわけインドで特別な存在となっている。当時のキリスト教世界で、最高の教養をもっていたザビエルがそうしたことに無自覚なはずはなく、だからこそ、ザビエルはキリスト教がまだいかなる意味でも全く届いていない、日本と中国を当初から強く意識していた節がある。
 そうした意味で、マラッカの丘の聖母教会はザビエルにとって、重要な布教上の拠点であり、1545年に初めてこの丘のうえへやってきてから1552年までの7年間、ザビエルは多くの時間を、この教会で過ごしている。


 マラッカ海峡に臨む玄関の跡地からふりかえって、壁だけが残る教会の内部を眺めると、壁が崩れ落ちないよう、赤い鉄製のアーチで補強されている。その向こう、かつては神父が立つ祭壇があったと思われる場所が、銀色の鉄柵で覆われている。その鉄柵に歩み寄って眺めてみると、頭文字のIHSのうえに十字架をあしらった、イエズス会の徴(しるし)が柵にくっきりと刻印されている。
 この銀色の柵の下に、かつてヨーロッパからここにやってきて、この地で帰天した、まだ若き宣教師たちの墓碑が残されている。ザビエルも、そのひとりであった。1549年、この丘のうえから日本に渡り、鹿児島、平戸、山口、堺、京都と2年余りを布教に過ごし、旅した後、中国への布教を目指したザビエルは、中国大陸への入り口、広東省の上川島で病に斃れる。ときに46歳だった。
 その遺体は上川島でひとたび埋葬された。だが、3か月半後に掘り起こされ、ちいさな船でマラッカに運び込まれた。そして、この丘の聖母教会の、この祭壇のもとに安置された。ここでザビエルは9か月間、眠っていたが、熱帯にもかかわらず、遺体は腐敗しなかった。やがて、遺体はインドのゴアに移され、現在もゴアのボン・ジェズ教会にある。


 ザビエルは35歳でリスボンから旅立った後、一度もヨーロッパへ戻ることはなかった。ともに若く、しがない、パリ大学の学生の身分でありながら、モンマルトルの丘のうえで、イエズス会の結成を誓い、会の最初の総長となったイグナシオ・デ・ロヨラが、ザビエルをヨーロッパへ呼び戻そう、と手紙を書こうとしていた、まさにそのときの帰天であった。
 ザビエルの死後、すぐに多くの証言がザビエルと接したひとたちから集められた。遺体が腐敗しなかったことを含め、数多くの奇蹟や、預言が確認されたとして、後にザビエルは列聖されている。カトリックでは、聖フランシスコ・ザビエルはアフリカの喜望峰から、インド、中国、日本に至る、広大な領域の守護聖人である。


 ザビエルの帰天の後、マラッカにオランダの東インド会社がやってきた。1641年、オランダはポルトガル軍を攻略し、マラッカを支配下に置いた。この教会は“聖ポール教会”(St. Paul's church)と、その名を変え、この丘は“聖ポールの丘”(St. Paul's Hill) と呼ばれるようになった。ザビエルが親しんだカトリックの教会は、ひとときプロテスタントの教会となった。
 やがて、オランダ人は、この丘のふもとに東インド会社の役所とともに、新しくクライスト・チャーチを建てた。信仰の場としての教会は、丘のうえから、ふもとへと移された。


 それから、この丘のうえは、軍事と船舶航行上の戦略拠点としてのみ使われるようになった。大砲を備えた砦や、灯りを備えた燈台が築かれ、オランダの後にやってきたイギリス時代には、カトリックの遺構である教会は荒れるに任せ、あろうことか、武器の弾薬庫として使われている。
 ぼくが90年代にマラッカにきたときは、その荒れ果てた丘のうえの空気の名残りが、廃墟のなかから、まだ微かに伝わってくる気がした。だが、時代のパラダイムは再び変わり、この地は“マラッカ海峡の歴史的都市群”として、世界遺産に登録された。この丘の周辺は国際観光地として、マレーシア政府によって美しく整備され、今や多くの旅人が世界中からやってきている。


 ぼくはもう一度、丘の聖母教会の入り口から、マラッカ海峡を眺めた。そして丘のふもとにみえる、“旅人椰子”の巨きな葉の戦ぎに耳を澄ました。巨大な椰子の葉は、今にも羽ばたきそうな翼竜プテラノドンなど、翼のある恐竜)の翼のようにもみえた。何も変わらずにあるのは、ザビエルも目にしたであろう、マラッカの海と、耳にしたであろう、椰子の木の戦ぎくらいかもしれない。