旋律的 林巧公式ブログ

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かみさまが通ってきた丘

f:id:h_major:20130807131548j:plain 丘をゆっくり登ってゆくと、巨大な葉を美しく開いた、〝扇芭蕉(おうぎばしょう)〟の木がみえた。英語では〝旅人の木〟(traveller's tree)や、〝旅人椰子〟(traveller's palm)と呼ばれる。マレーシアでぼくが大好きな木のひとつだ。〝旅人〟というネーミングの由来は背が高く、ユニークな葉の開きから、遠くからみえる旅人の道しるべとなるから、……あるいは、太く長い葉の根本に蓄えられた水分で旅人が喉の乾きを潤せるから、といわれる。
 樹高は10メートルにも達し、わずか二、三十枚の葉が大きく、まさしく扇のように開いている。だから、ひとつの葉の巨きさもただごとではない。一枚の葉で人の姿が丸ごと隠れてしまい、一本の木が広げる葉で建物の屋根を覆い尽くしてしまう。
 幼いころから、巨きな葉っぱの芭蕉や、椰子の木が、ぼくは好きで、そうした椰子への憧れがこうじて熱帯を旅するようになった。〝扇芭蕉〟に包み込まれるように、その葉の戦ぎを耳にしながら、丘を登るということは、ぼくにとって南の旅の最もしあわせなひとときだ。
 その〝扇芭蕉〟の向こうには、オランダ東インド会社時代の建物の赤い瓦が連なり、さらに一軒向こうには、オランダ人が建てた〝クライスト・チャーチ〟の赤い屋根のうえの鐘と風見鶏がみえている。ぼくは丘の上へとつづく道沿いで立ち止まり、ひととき椰子の木を身近に眺めるしあわせに浴し、マラッカに初めて建てられたプロテスタントの〝クライスト・チャーチ〟の鐘と風見鶏を丘の途上から望む巡り合わせを喜んだ。

 丘のうえには、ポルトガル人が建てたカトリックの〝丘の聖母教会〟(Igleja de Nossa Senhora de Monte)の、天井が崩れ落ちた廃墟が残されている。カトリック教徒が海の近くの丘のうえに教会を建てるということは世界中で行われた。だから、ポルトガル語でおなじ名をもつ教会は世界各地に遍くあり、ここマラッカの教会もそのひとつに過ぎない。
 だが、マラッカはぼくにとって、あるいは日本人にとって特別な土地だ。ひとつは、この丘が西洋と東洋を隔てるマラッカ海峡に臨んでいるということ。もうひとつは、この丘のうえの教会を通り抜けることで、聖フランシスコ・ザビエルが日本へやってきた、ということ。
 ぼくは〝丘の聖母教会〟の、今はファサードの壁だけが残り、かつては聖なる図像が描かれたステンドグラスがはめ込まれていただろう、頭上の空間から、青い空をみあげた。そして、荘重な扉がはめ込まれていただろう、正面玄関のぽっかりと空いた空間に立って、マラッカ海峡をみおろした。どこから眺めるよりも、この〝丘の聖母教会〟の玄関からが、マラッカの海を心地よく眺められる。そのような土地にポルトガル人は教会を建てた。ザビエルもこの場所から眺めたに違いない、マラッカのあたたかな鉛色の海は、日の光を静かに照り返している。f:id:h_major:20130807121135j:plain
 すでにリスボンから、インド西岸に位置するゴアまでの航路を開拓していたポルトガルが、マラッカ王国を攻略して、この地を占領したのは、1511年のことだ。そして、1521年、ここに〝丘の聖母教会〟が建設された。そうやって、ポルトガル国王とカトリックの息が、西洋と東洋を隔てる海峡にかかることになったものの、ここより東のアジア諸国キリスト教にとって未踏の地であった。イエズス会フランシスコ・ザビエルは、ゴアを経由して、この〝丘の聖母教会〟にやってきた。そして、マラッカとゴアを行き来しながら、さらなる東方への布教をうかがう。
 ザビエルはゴアでも旺盛に布教をしている。だが、キリストの十二使徒のひとり、聖トマスがインドにやってきて布教したという伝説がインドにはあり、実際にポルトガルがやって来る以前の、古い時代のキリスト教徒がインドにはいる。だから、聖トマスはとりわけインドで特別な存在となっている。当時のキリスト教世界で、最高の教養をもっていたザビエルがそうしたことに無自覚なはずはなく、だからこそ、ザビエルはキリスト教がまだいかなる意味でも届いていない、日本と中国を当初から強く意識していた節がある。
 そうした意味で、マラッカの〝丘の聖母教会〟はザビエルにとって、重要な布教上の拠点であり、1545年に初めてこの丘のうえへやってきてから1552年までの7年間、ザビエルは多くの時間を、この教会で過ごしている。

 マラッカ海峡に臨む玄関の跡地からふりかえって、壁だけが残る教会の内部を眺めると、壁が崩れ落ちないよう、赤い鉄製のアーチで補強されている。その向こう、かつては神父が立つ祭壇があったと思われる場所が、銀色の鉄柵で覆われている。その鉄柵に歩み寄って眺めてみると、頭文字のIHSのうえに十字架をあしらった、イエズス会の徴(しるし)が柵にくっきりと刻印されている。
 この銀色の柵の下に、かつてヨーロッパからここにやってきて、この地で帰天した、まだ若き宣教師たちの墓碑が残されている。ザビエルも、そのひとりであった。f:id:h_major:20130807121054j:plain
 1549年、この丘から日本に渡り、鹿児島、平戸、山口、堺、京都と2年余りを布教に過ごし、旅した後、中国への布教を目指したザビエルは、中国大陸への入り口、広東省の上川島で病に斃れる。ときに46歳だった。
 彼の遺体は上川島でひとたび埋葬された。だが、3か月半後に掘り起こされ、ちいさな船でザビエルが生前、拠点としていたマラッカに運び込まれた。そして、この〝丘の聖母教会〟の、この祭壇のもとに安置された。ここでザビエルの遺体は9か月間、眠っていた。熱帯にもかかわらず、遺体は腐敗しなかった。やがて、ザビエルの遺体はさらに西の拠点、インドのゴアに移され、現在もゴアのボン・ジェズ教会にある。

 ザビエルは35歳でリスボンから旅立った後、一度もヨーロッパへ戻ることはなかった。ともに若く、パリ大学のしがない学生の身でありながら、モンマルトルの丘のうえで、イエズス会の結成を誓い、会の最初の総長となったイグナシオ・デ・ロヨラが、ザビエルをヨーロッパへ呼び戻そう、と手紙を書こうとしていた、まさにそのときの帰天であった。
 ザビエルの死後、すぐに多くの証言がザビエルと接したひとたちから集められた。マラッカの〝丘の聖母教会〟で遺体が腐敗しなかったことを含め、多くの奇蹟や、預言が確認されたとして、後にザビエルは列聖されている。カトリックでは、聖フランシスコ・ザビエルは、アフリカの喜望峰から、インド、中国、日本に至る、広大な領域の守護聖人である。

 ザビエルの帰天の後、マラッカにオランダの東インド会社がやってきた。1641年、オランダはポルトガル軍を攻略し、マラッカを支配下に置いた。マラッカの〝丘の聖母教会〟は“聖ポール教会”(St. Paul's church)と、その名を変え、それからこの丘は〝聖ポールの丘〟(St. Paul's Hill) と呼ばれるようになった。ザビエルが過ごしたカトリックの教会は、ひととき、そのままプロテスタントの教会となった。
 やがて、オランダ人は、この丘のふもとに東インド会社の役所とともに、新しく自分たちの流儀で〝クライスト・チャーチ〟を建てた。西洋人の信仰の場としての教会は、丘のうえから、ふもとへと移された。
 見晴らしのいい、この丘のうえは、軍事と船舶航行上の戦略拠点としてのみ、扱われるようになった。大砲を備えた砦や、灯りを備えた燈台が築かれ、オランダの後にやってきたイギリス時代には、カトリックの遺構である教会は荒れるにまかせ、あろうことか、武器の弾薬庫として使われている。
 ぼくが90年代始め、初めてマラッカにきたときは、荒れ果てた丘のうえの空気の名残りが、この教会の廃墟のなかから、まだ微かにたちのぼってくる気配がした。……だが、時代のパラダイムは再び変わり、この土地は〝マラッカ海峡の歴史的都市群〟として、世界遺産に登録された。この丘の周辺はマレーシア政府によってあらためて美しく整備され、今や国際観光地として、多くの旅人が世界中からやってくる。

 ぼくはもう一度、〝丘の聖母教会〟の扉があった場所から、マラッカ海峡を眺めた。丘のふもとにみえる、〝旅人椰子〟の巨きな葉の戦ぎにそっと耳を澄ませた。巨きな椰子の葉をじっとみていると、今にも遠い空の彼方へ羽ばたきそうなプテラノドン翼竜)の〝翼〟にみえた。ザビエルがやってきたときと変わらず、この丘にあるのは、ザビエルもここで毎日、眺めただろう、マラッカの海と、耳を澄ませてヨーロッパ人として想いを馳せたに違いない、椰子の葉の戦ぎくらいかもしれない。だが、それらは今もここに、この丘にかわらずにある。そのことがぼくは嬉しかった。