旋律的 林巧公式ブログ

旅とおばけと音楽と、小説とごちそうと物語について。

ようこそ

 オランダの道端に停まっている荷台に積まれた自動演奏楽器。夕暮れどきの広場にオルガンと鐘と太鼓の音色を響かせます。ここが街のみんなが集う“黄昏広場”です。

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「旋律的(はてなダイアリー)」が、こちらに引っ越しました。“カテゴリー”のリストは、スタイルを少し変えて、一番下にあります。

 

 

続“おばけのいない人生”

 世界と人生をあれこれ考える時に“〜である(のある)人生”と“〜でない(のない)人生”という対義的二分法で考えてみる。たとえば“おばけのいる人生”と“おばけのいない人生”。ほんとうに恐ろしいのは“おばけのいない人生”だ。おばけのいない人生(世界)が恐ろしいのは、そこにいずれ必ず顔を出してくる“おばけじみたもの”が人生(世界)を壊しはじめるから。世界の初めからいるおばけは、世界の一部であって、みずからの手で、世界を壊したりはしない。逆に、後からやって来て、世界を壊そうとする、畏れを知らぬ、ならず者を懲らしめる。
 “おばけじみたもの”とは何か? それは新しい顔の“神”である。伝統的な神が消え、聖なる領域が制御できないところで発生する、お金や、権力や、他のありとあらゆる俗なものへの信仰、すなわち俗の聖への転化である。そうやって、むっくりと頭をもたげた新しい聖が、ときに世界と人生を壊し始める。
 新しい聖は、昔から絶えることなく発生していた。聖と俗、ハレ(晴れ)とケ(穢れ)は、敵対するようでいて、脈を通じ合い、お互いを補完しながら、世界の日常をバランスよく宙吊りにしてきた。どちらかの力が強ければ、もう一方も補完的に強くなる。そうでなければバランスが失われ、日常が崩れてしまう。


 仏教も、キリスト教も、新しい聖として日本にやってきた。すると村や、湖や、山や、川の聖的存在であった、ちいさな神々は、新しい聖にその聖的な地位を追われ、零落の身のうえとなった。そうやって落ち延びる過程で、聖が俗に転化して、神ではなく、おばけとして村人に感知されるようになったものが妖怪だ。妖怪は昔の、ちいさな神が零落したものだ、ということは、柳田國男を嚆矢として、多くの人たちが気づいていることだ。もともと聖であったものが、俗に転じたものは、世界や人生になじみやすく、さほどの脅威ではない。恐ろしいのは、もともと俗のまっただ中にあるべきものが、聖に転じたものだろう。


 たとえば政治、あるいはジャーナリズム、古代ギリシアアリストテレスの時代から語られているように、これらは“妥協の芸術”であるべきで、殊更に“中庸”が求められるものだ。こうしたものが俗から聖にむっくりと頭をもたげて、“正義”や“真実”を語り始めると、やがて世界(人生)を壊し始める。いかがわしい、という現実が増えているのに、そして、いかがわしいからこそ、日常のバランスが求められるのに、人はいかがわしさに不寛容になっている。信じることだけで、生きていければ美しい。だが、信じることは、信じられない(信じたくない)ことを壊してゆく。政治や、ジャーナリズムは元来、いかがわしいものだ。小説がそうであるように。そうやって俗に置くことで、通じにくい言葉が、通じることもある。


 と、ここまで前置きなしに言及した聖と俗の対立を、ぼくが深く知ったのはルーマニアミルチャ・エリアーデの宗教論集と小説からだった。そして、マックス・ウェーバーが明らかにしたように、俗のなかから立ち上がった最強のボスキャラは、プロテスタンティズムの暮らしぶりに潜んでいた近代合理主義だろう。わずかな間に地球上に“おばけがいない人生”を顕現させたものの正体がこれだ。人は近代合理主義のもとで、その計算可能性に照らし出された土地で、史上かつてない豊かさを手に入れた。だが、いつしか歯止めが利かなくなった、このボスキャラに、エネルギー供給にしろ、そこからくる気候問題にしろ、あるいは科学技術そのものの進歩と、その質的変容にしろ、ひょっとしたら人類丸ごと滅ぼされかねない地点に来ている。少し昔なら、おばけが歯止めを入れられた。だが“おばけのいない人生(世界)”では、それも不可能になった。


……panino的より