旋律的 林巧公式ブログ

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上海 旋律の惑い

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 上海にいたわけではない。ほとんど赤道に近い、焼けつくように暑く、ちいさな街で、ぼくは一か月ほどを過ごしていた。そこは中国大陸からは、もう忘れられたような、旧(ふる)いチャイナタウンだった。その街の知り合いから、三日後に雅集(ヤージー)があるから来ないか、という誘いがあって、しかも〝拍板〟を叩かないかといわれ、ぼくは上海を憶いだしたのだった。

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 雅集とは、もともとは〝琴棋書画〟を嗜む文人たちが古琴を弾いたり、詩を詠んだりする集いだが、上海では、……そして上海でなくとも、中国音楽を愉しもうとする人たちにとっては、絲竹(スーヂュ)のセッションをする集いのことだった。
 絲竹は、江南絲竹とも呼ばれ、明清代のころから、江南(ジァンナン / 揚子江の南)にひろがる肥沃な地方で愉しまれてきた伝統的な音楽である。それが上海という都市に流れ込み、昔からの旋律が都会的に熟すチャンスが与えられた。絲竹の〝絲〟は弦楽器、〝竹〟は管楽器で、〝絲〟は二胡、琵琶、月琴、三弦、揚琴、〝竹〟は曲笛、笙、洞簫などの伝統楽器を使った、純粋器楽アンサンブルだ。拍板はそれらとともに絲竹で使われるが、〝絲〟でも〝竹〟でもない。二枚の細長い板を、ただ一本の紐で結び合わせただけの打楽器である。唐代にはすでにつくられていた。その結び目となる紐を左の掌にひっかけ、左手の揺れだけでかちんと打ち鳴らす。
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 二十世紀初頭になって上海では絲竹を愉しむ結社があちこちにつくられ、一九三〇年代にひとつのピークに達する。その時代、上海に築かれた租界では、外国人たちが享楽的な暮らしに明け暮れていた一方で、中国人たちの街角には、絲竹の結社が競いあうようにつくられていた。あちらこちらで密やかに雅集が開かれ、そこで卓を囲んだ楽士たちの手によって、中国大陸に固有の旋律が、甘酸っぱく熟されていた。
 音楽は熟される。ことに絲竹には加花(ジァホア)と呼ばれる、絲竹ならではの即興演奏があった。〝花〟とは、文字通りの美しい花という意味の他に、中国語では模様や柄 ( がら )の意があり、〝加花〟とはオリジナルの旋律に各楽器の奏者が楽興に応じ、あるいは合奏する相手の演奏に応じて、新たな興趣や装飾を施すという絲竹の音楽用語である。クラシックなら協奏曲のカデンツァ、あるいはジャズのアドリブのようなもの。そうした合奏の愉しみ方が、上海の絲竹ではされてきた。
 今もなお上海では絲竹を愉しむ雅集が開かれている。観光名所として有名な豫園のなかに湖心亭という茶館があり、そこは絲竹を愉しむ楽士たちが集う場として、ひととき、ひろく知られてきた。
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 多種類の、しかも共鳴原理の異なる楽器を使って、即興演奏がある純粋器楽合奏という形式は、音楽的にみるならば、とても高度な抽象概念を含みもっている。世界中どこだって、ひとはうたを歌う。太鼓を叩く。笛を吹く。あるいは、弦のある楽器をかき鳴らしながら、うたを歌う。だが、多種類の楽器の、うたのない器楽合奏は思いのほか、少ない。絲竹のような純粋器楽合奏が伝統的に愉しまれてきた土地は、さほど多くはない。ジャズのセッションは、もちろんそのような音楽だ。クラシックの室内楽や、管弦楽も、作曲者の地位が高過ぎるきらいが少しあるが、そうである。バリ島のガムランも、そうだろう。日本では、気づいている人が少ないが、囃子がそうした音楽だ。上海の絲竹も、それらの音楽と肩を並べる、高度な純粋器楽合奏の仲間なのだ。
 ジャズはシカゴで、そしてニューヨークで花開いた。クラシックはウィーンで、またパリでその実を熟した。おなじように、絲竹は上海で育まれて、中国各地で、また世界中のチャイナタウンで、その果実を実らせたのである。

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 熱帯の安宿の固いべッドに寝そべりながら、ぼくは上海のちいさな伝統楽器店で美しい拍板をみつけたときのことを憶いだしていた。賃料が安いからだろう、薄汚く古ぼけたビルの三階の奥まったところに、その店はあった。教えてもらわなければ、まず辿り着けない店だった。だが、楽器は逸品ぞろいだった。伝統楽器でも、上海でしかみかけず、まず手に入らない、特別な楽器を、たくさん置いていた。
 拍板は複数の板を紐で結びつけただけの構造をしている。だが、その大きさも、重さも、板の形すらも、楽器ごとに違う。拍板は絲竹だけの楽器ではなく、ありとあらゆる中国伝統音楽で昔から使われてきた。だから、広大な中国大陸のなかでは、それぞれの地方ごとに、楽器としての特徴も違い、紫檀や、マホガニーでつくられ、長方形をしたものが中心だが、牛の舌のかたちをしていることから〝牛舌板〟と呼ばれる板や、竹でつくられた〝蓮花板〟という板もある。沖縄の〝四つ竹〟も、中国の拍板が伝わって、その姿をかえたものだ。
 ぼくは上海と香港で手に入れた拍板を一組ずつもっていた。香港で買った〝板〟は、広東音楽のための拍板である。上海の楽器店では、おなじ伝統打楽器でも、絲竹のためにつくられた〝板〟だった。雑居ビルの三階の片隅の楽器店で、ぼくは嬉しくなってあれこれと長い時間、みてまわって、そのなかから赤みがかって、ほのかに重く感じられる、絲竹専用の美しい拍板を買ったのだった。

 雅集では、中国伝統楽器を抱えた奏者たちが、ひとつの卓をぐるりと囲み、お互いの顔がよくみえるように座る。その座り方から察せられるように、雅集は演奏会ではない。客に聞かせるための音楽の集いではなく、奏者自身が旋律を愉しむための集いなのだ。
 だから、雅集は近代的なコンサートという概念にはそぐわない。ジャズも、その出発点では雅集とおなじだった。室内楽も、かつてはそうだった。旋律は、それを愉しもうとする奏者をまず必要とするが、必ずしも聴衆を必要とはしない。

 あらゆる音楽のはじまりはリズムだ。だから、絲竹のはじまりは拍板である。〝板〟がぶつかる響きが拍子を決め、セッションの口火を切る。古の旋律をはじめに、それぞれの楽器で演奏し、やがて旋律に加花を施してゆく。
 加花には、拍子を倍にしたり、半分にしたり、音階のなかで一定の決まった音だけを弾かなかったり、あるいはひとつ飛ばしに旋律の音を弾いたり、リズムパターンを違った様式に崩したりと、さまざまな手法がある。一定の約束事を外さなければ、どのように弾いてもいいともいえるが、むろん他の奏者たちに受け容れられ、旋律を〝熟する〟ものでなくてはならない。ジャズの演奏家がそれぞれの演奏スタイルをもつように、熟達した絲竹の奏者もまたそれぞれ固有の風格をもっている。

 遥かな昔、鄙びた地で歌われていた、ひとつのうたであった旋律が、そんな奏者たちが集う、上海での雅集のなかで徐々に熟し、遂には中国を代表する名曲となったものがいくつもある。また、ひとつの旋律が、セッションを通して別の風貌をもった旋律に変容し、そこからまたさらにひとつの新たな旋律が顔をみせることも多々ある。〝老六板(ラオリウパン )〟という古い旋律は、雅集での加花によって、〝花六板(ホアリウパン )〟や、〝中花六板(ジョンホアリウパン )〟という新しい旋律を生み落とし、それぞれがふたたび雅集のなかで、さらなる新たな旋律の源となっている。
 だから、絲竹の曲目に、作曲者名のクレジットはない。ひとつの曲目の名前すら、ひとつではない。それぞれの旋律は容易に溶け合い、ひとつの旋律の結び目は瞬く間に解かれる。その旋律を愉しんだ楽士ひとりひとりが、奏者であるとともに、名もなき作曲者なのだ。
 そうやって愉しんだ旋律に、さまざまな名が自然とつけられてきた。そうした旋律は、もし上海という都市がなければ……そこで密やかに雅集が催されなければ……その響きを世にとどめることができなかっただろう、と思う。
 雅集ということばを聞いても、あるいは絲竹という言葉を耳にしても、ぴんとこない人たちは、中国大陸の中国人ばかりが暮らす街の、中国人のなかにもいくらでもいる。その一方で、今では上海のみならず、世界各地の大都市で密やかに雅集が開かれている。絲竹を愉しもうという楽士たちは、北京にも、台北にも、香港にも、クアラルンプールにも、ロンドンにも、そして東京にもいる。

 ぼくは上海で買った、上海の楽器工廠が製作した拍板を手にして、あちこちの雅集にでかけてゆき、その板を打ち鳴らしたことがあった。二胡を弾き、あるいは揚琴を叩いたことも多々ある。
 雅集にでかけると、ぼくは合奏のさなかに、その熟した旋律が上海というひとつの都市を、まるごと呑み込んでいる、と強く感じた。絲竹の旋律のなかには、すでに喪われた上海のひところが色濃く、はっきりと艶やかに浮かんでいる。雅集に自分の楽器を携えて、足を運ぶことは、中国古来の旋律の熟成に手を貸すことでもあり、あのころから今につづく、上海に足を踏み入れることでもある。
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 チャイナタウンの旧い知り合いは、ぼくより年齢は二回りもうえの琵琶の名手で、かつて彼の家に招かれて、ぼくが二胡を弾き、ふたりだけで絲竹を愉しんだことがあった。ぼくが拍板を打ったり、揚琴を叩くことを、もちろん知っていて、彼は誘ってきたのだ。
 だから、雅集への誘いは、心から嬉しかった。
 だが、拍板には二胡や琵琶のように旋律をうけもつ楽器にある華やかさはないものの、音楽全体の勢いを決める、きわめて重要な役回りがある。ぼくは躊躇していた。
 絲竹では、鼓手と呼ばれる打楽器奏者が、左手で拍板、右手で板鼓を同時にうけもって打つ。板鼓は木をくりぬいてつくった小匣(こばこ)のようなかたちの打楽器で、木製のスティックを打ちおろして、かつんと鳴らす。演奏では拍板は強拍、板鼓は弱拍のリズムに使われる。演奏技術的には板鼓はさほどでもない。板鼓はあらゆる太鼓類とおなじで、打ちおろす手の動きがダイレクトにリズムにつながっている。
 けれども、拍板は難しい。拍板は一枚だけを左手でそっと握り、あとは手の揺れによって、紐から楽器に振動を伝え、宙ぶらりんになったもう一枚の板を、手にもった板に、かちんとぶつける。ぴたりと、一瞬の狂いもないタイミングで、しかも楽器がその身に備えた最もよい音で、二枚の板をかちりと響かせることは、習いはじめのうちは、まったくもって至難の技である。経験があっても、使いなれない板では難しい。しかも、鼓手は多くの場合、他の楽器の演奏にも深く通じ、他の奏者の信望を得ている者であることが多い。
 ぼくが雅集への参加を躊躇しているのは、この点だった。大きさも重さも形もわからない拍板を手にして、たちどころに的確に鳴らせればいいが、その自信はまったくなかった。うまく楽器を扱えなければ、合奏全体をぶち壊しかねない。東京に置いてある、使いなれた上海の美しい拍板を、ぼくは想った。あの楽器が、今ここにあれば、あの楽器をもってきていれば……だが、むろん旅先の安宿にはあるはずもない。

   ***                   
 雅集の前の日の夜、安宿のドアが叩かれた。開けると宿の主人が大きな茶色い紙封筒をもって突っ立っている。ぼくが出かけていた夕方、人がやってきて、預けられた、ことづけものだという。
 ぼくは訝しく思いながら、主人に礼を言って、封筒を受け取った。封筒の裏には、琵琶の名手の名が達筆な字で書かれていた。封筒を開けると、出てきたものをみて、ぼくはあっと息を呑んだ。
 拍板だった。それをじっとみつめ、手にとって、裏がえした。そこには、ぼくが東京に持っている楽器とおなじ、上海の楽器工厰の名が刻まれていた。
 絲竹用の上海の〝板〟だった。だが、板の赤みはもはや黒褐色に近い。ぼくがもっている楽器よりもすっと古く、年季が入っていた。……誰の楽器なのだろうか。とにもかくにも、このちいさなチャイナタウンの誰かが、ぼくがあの三階の楽器屋で買ったものとおなじ、上海の楽器工厰の〝板〟を持っていて、大切に使ってきたのだ。……これまで、この〝板〟は何千拍、何万拍、何十万拍のリズムを打ち鳴らしたことだろう。赤道に近い、こんな街にまで上海の〝板〟は運ばれて、絲竹で叩かれていたのだ。
 ぼくはその〝板〟を握り、その紐を左の掌にかけてみた。かちん、とひとつ鳴らしてみた。おなじ楽器工厰の、おなじ楽器なのだから、当然だ。昨日までずっと使ってきた楽器のように、すんなりと懐かしく左手になじんだ。

   ***                   
 楽士たちが美しい木彫の卓をぐるりと取り巻いて座っている。
 しんとした静寂が卓を支配している。街を吹き抜ける風までもがとまってしまったようだ。楽士たちはひとり残らず、それぞれの楽器を抱え、息をつめて、鼓手の身動きをじっとみつめている。
 ぼくは板鼓をちらりとみると、右手の竹のスティックを板鼓のうえに打ちおろす。かつん、かつん、と板鼓がふたつ鳴り、静寂が破られる。そして左手を揺らし、上海の〝板〟を打ち鳴らした。

 音楽がはじまった。
 鼓手をみながら、一斉に楽士たちはおのおのが手にした楽器……二胡、琵琶、揚琴、月琴、三弦、曲笛、笙、洞簫……を、鳴らしはじめる。強拍を伝える〝板〟のうえに、それらの楽器の響きが共鳴する。それぞれの絲と竹、弦楽器と管楽器が、調子をあわせる短い序奏の後、いよいよ旋律が動きだす。

 そして徐々に加花へと進んでゆく。
 二胡は、ヴァイオリンでいえば真ん中の二本の弦を、弓の裏表を使って奏でる。その弓は竹でつくられ、ヴァイオリンの弓よりも七、八センチは長い。揚琴には鍵盤がひとつもなく、精密なハンマーも備えてはいないが、しなるバチで弦をダイレクトに打つ、いにしえのピアノである。拍板と板鼓は千年の昔とかわらず、木が鳴り響く、かち、かちという音で、軽やかにリズムを刻みつづける。

 旋律はうねるように、ひとつの卓のうえで響きわたる。ときおり緩み、また締まり、いきなり走り、ふと立ち惑う。それは気紛れな波や風の動きを彷彿とし、いつかどこかで聞いた懐かしい物語を耳にするようでもある。また変幻しつづける伝説の妖怪の立ち居振る舞いにも似て、永い眠りから息を吹きかえした龍の身動きのようでもある。
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 はっきりとしていることが、ひとつある。その木彫の美しい卓が、上海にはなく、台北のマンションの一室にあっても、香港の邸宅の調度にあったとしても、ロンドンの石づくりの建物のなかに据えられていたとしても、あるいは赤道に近い、ちいさな旧いチャイナタウンの旧家の広間に置かれていても、……その瞬間、卓のうえには、かつてあった、そして今もなおここにある、上海が色濃くあらわれている。


……季刊「幻想文学」vol.62 (特集/魔都物語)より